自選五十首評⑤ 根本博基さん

歌人に自選五十首をいただき、そこから歌評というよりは歌人評にせまってみようという企画の第五回になる。もうここの紹介文、これくらいでいいよね。

というわけで今回取り上げさせていただくのは、根本博基さん。うたよみんやtwitterで短歌の活動をされていて、原井さんとも名乗られている方だ。というか基本的には原井さんだ。ここでは根本さんと書くけれど、なんか違和感があったりもする。ともあれありがとうございます。

さて安直なカテゴライズをしてしまうと根本さんはネット系の歌人ということになるのだけれど、僕はこの点見逃せないことだとも思っている。カテゴライズを極端に嫌う人っているけど、でも実際その場の流行って作歌に影響が出たりするものだと思う。カテゴライズはよくないけれど、そういうつかみ方を拒否しているとかえって視野が狭くなる気がする。

ネット系、となると第一回で取り上げたさちこさんもそれにあたるといえて、そして根本さんの歌はさちこさんのときにも指摘したパロディ性やフィクション性というものが大いにあり、これはインターネット短歌の枠がいくつかある中での、ひとつの流行ないし型ではあると感じている。

魂を売ろうとしたが「状態が悪すぎます」と悪魔は言えり
くまさんがややキレ気味にいうことにゃ「撃てとは誰も言ってないだろ」

まず二首。「悪魔に魂を売る」という慣用表現と、「森のくまさん」という童謡のパロディになる。どちらも下敷きからねじっていて、悪魔の歌はねじった先の落としどころが病院の文脈に。森のくまさんも、童謡だから当たり前のようにしゃべることを受け入れられていたのが、本当に人里に下りてくる野生の熊にねじられて(戻されて?)しまって、熊らしくしゃべっているのがおかしいところにもってきている。そういう面白さがある。

こういった根本さんの歌の特徴として、「答えがしっかりある」ことがあげられると思う。歌の中の接続と発想が必要かつ十分に歌に記載されていて、言外にあれこれ語っているというものがない。現実感に即した生活詠なんかでこれをやってしまうと、奥行きがないとかそのまんまとか言われてしまうのだけれど、これはシンプルに空想の中で面白いことをやっている、というのに尽きる。わかりやすいのがむしろいい。

密室となった書斎に残された鍵と死体とわたしの指紋

で、こういう面白さをやりたいというのが、根本さんの素養であって、その素養はフィクション文芸にベースがあるんだと思う。掲出歌はミステリ小説からの着想。「書斎」含めて「ミステリあるある名詞」で固めつつ、「これわたしが疑われるやつ!」とドキッとしつつ「でもわたしは密室内にいないんだからこれなんらかのトリックははたらいてるよな」への気づき。「やべぇ」から「いや不可解」に読み手の心をシフトさせるのがミステリっぽい。

ハロー ハロー こちらは地球 ねことよく出会う日でした おやすみなさい

こちらはどこかSFチック。「こちらは地球」だからだろう。通信をしているような感じ。そんなに重要な通信じゃなくてもしちゃうの。それが日常の良さを浮き彫りにしつつ、やっぱりベースの世界観があるので、「こちらの世界としていい歌」ではなくて「そちらの世界に行きたいいい歌」だ。この、短歌で語られる世界に行きたいと思わせるのは、フィクション文芸の妙になると思う。

つ、つ、つ、つ、つ 月の軌跡をなぞったらあなたのいない窓なのでした

とはいえ根本さんがこちらの世界、リアル詠みをしないのかと言えば全くそうではなくて、けれど述べてきたようなフィクション性を流し込んだかのような詠み方になったりしてもいる。これはとてもファンタジーっぽいんだけどやってることは現実世界な感じ。月の軌跡をなぞるってことは弧だ。上辺が円弧の窓って特にファンタジーっぽさがある。

ちょっと気障っぽいけれど、どの窓にも基本的には「あなた」はいないわけで、あえて指摘するところに相聞感情の協調があると思う。初句の「つ」はなぞる擬音として適切で、そこから「つき」につながる言葉遊びもあって、これはむしろ、照れ隠しの技巧なのかもしれないなと感じる。

僕もずっと回文という技巧をやっているのでよくわかるけれど、技巧って照れ隠しの意味があって、これがあるから恥ずかしくなく出せる、みたいなところがあったりする。根本さんの歌にも、文芸に親和性の高い技巧がちりばめられていて、そういう雰囲気を感じ取ることはある。

隠しごとしないっていう約束をしたから秘密があるのは内緒
完璧な口説き文句をもうすぐで思いつくからそこにいてくれ

という流れで根本さんの相聞歌を見ていこう。技巧的だ。言葉遊びで心をごまかしている感じがある。前者、条文解釈のような言葉のすり抜け方。後者、口説き文句を考えることを提示することで口説いていることを示す回りくどさ。

これら主体に覚えるのはいとしいめんどくささで、本心がしっかりすけているんだけどそれを覆うものがある。覆っているのが技巧で歌の読みどころなんだけど。さちこさんの五十首評のときも、照れ隠しってあるのではと指摘した。根本さんにも同じベクトルのことは言えて、ただその度合いがパロディの時にはうすく、とくに「あなた」に向けられるときに出ているのではないかと感じている。

好きでした    [SCAT]    じゃあ もういくね

スキャット、つまりわけのわからない音が二句から四句にかけてぶちまけられている。それを[SCAT]の一言で片づけるのが面白いところなんだろうけど、本質はそれが「聞かせられない」ってことだと思う。こういうスタンスは、主体自身を下げるやり方。多くはダメで、めんどくさい主体の描き方。それは根本さんの特徴だと思うし、またそのやり方は「相手への救済」にも向いていると思う。

そうやってすぐに落ち込みたがるのは君に限った話ではない
好きなだけ泣いたらいいよ その間パチンコ打って待ってるからさ

この二首、どちらも「君」を慰め、救おうとしている歌だ。そのやり方が、「君」を持ち上げてはいない。周囲や自分を下げている。でもそれは、決して周囲や自分を下に見ているわけではない。歌で落ち込んでいる「君」が落ちている以上、それを上げても伝わらないんだという意識のもと、落ちている「君」まで下りていくやさしい語り方の立場ということだろう。

根本さんは人にものを教える仕事をされているともいう。伝えかたにも日々苦心されているのかもしれない。そんな中で愛用されている伝えかたなのかなあ、ということを思った。それはすごく、そのひとらしいと思うし、いただいた五十首から一番感じたことだった。

ということでオチがついてきたと思うけれど、ここまで書いた内容だと、根本さんが周囲の観察や把握の歌をまったくしないような人という印象に終始してしまう。そんなことはない。でも、比率として少ないことは確か。

駅前の本屋があった場所はまだ本屋があった場所のままです

ほらね。でも、この把握の原点も、根本さんの出自である「本屋」なんだなあとしみじみする。

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