2023評bot (1)
評botの公開評をここでまとめていきます。どうぞよろしくお願いいたします。
一度の記事で最大4評とし、特に溜まっていなかった場合は1評でも記事にすることといたします。
趣旨はこちらのツイートをご参照ください。
それでは始めます。なお、ご利用者様の筆名は敬称略表示とさせていただきます。ご了承ください。
まず、「鼻濁音」とはなんなのか、私の拙い知識と検索の成果で簡単に整理しますと、
・主に語頭以外のガ行音を、鼻に音を抜く感じで発音するもので、
・使えれば日本語が美しく聴こえるものの、
・今となっては(地域差はあるとはいえ)普通に習うこともなく、
・使えない人や知らない人も多いもの、
です。私も使えません。
従いまして、「美しい鼻濁音」を使える人は、日本語の美しい人と言うことができます。そういう人を「信じやすい」かと問われれば、人それぞれかもしれませんが、直感では「信じやすい」のではないでしょうか。その意味で、私は主体に共感しました。
また、鼻濁音を使える人がレアということを考えれば、「だけで」なのか、むしろ「使える人は信用してしまう」なのか、とも感じましたが、ここでの「だけで」は、不特定多数の他人に「その要素があるだけで」という意図かと捉えております。そのほうが、この主体がそう思うに至った、原体験としての鼻濁音がなにかしらあるのだろう、そういう奥行きを思えるからです。
一方で、この主体の「信じてしまう」が、
・信じてしまう(ような私はよろしくない)
・信じてしまう(ような私でよろしい)
のどちらなのかは、一首からは確定しません。個人的には、ここを言い切らないにしても、鑑賞上の手ざわりの余地を設けておくのもよいのかなとは感じました。もちろん、連作として設ける手法もあるとは思います。
最後に、「たやすく」が効いているかはちょっと疑問です。直前に「だけで」とあれば、「たやすく」なのだろうとは推測できますし、その意味を加重するレトリックと割り切ったとしても、結句にダメ押しのように「しまう」が来ますので、これはあえて言葉に落とし込まなくても伝えられる部分ではないかとは感じました。
ご利用ありがとうございました。
普通、「帰ります」の行き先として想起されるものは「自宅」でなのに、それが転倒してしまい、自宅から職場に「行きます」と言うべきところを「帰ります」と言ってしまった、そういうおかしさを拾った歌なのだなと思いました。人生の仕事の比重が高い方は、共感できる歌意だと思います。私も、共感できました。主体は実際に電話などで口にしていそうです。
ところで、意味の取り方として引っかかりを覚えたところとして、
・自宅から赴任先へと帰ります、(あっ、言い方がおかしい)
・いや戻ります。(うん、この言い方でいい)
ということなのだろうか、ということです。もちろん、赴任先に戻るという表現におかしなところはありませんが、「自宅から」という起点を前提に、「帰ります」に対して「いや」と思った主体が、「戻ります」は「OK」なのだろうか。私からすればどちらも不自然で、おかしみのある表現でした。
ただ、「勤務先」ではなく「赴任先」という言葉が、転勤を前提としていること、結句でダメ押しのように職場側を「日常」と描いていることから、この主体にとって「自宅から職場に戻る」は普通のことなのかもしれない、と納得はできています。そこの納得に「赴任」という表現はよく寄与していると思いました。結論、私はいい歌だなと思ったのですが、そう納得するまでの思考過程がありましたので、初読ですっと入ってくる歌ではないと思います。
蛇足ですが、この歌は、テレワーク読みをされてしまう可能性があるのかも、とは思いました。在宅勤務が普及した時代です。自宅に居ながらアクセスして「赴任先に戻る」ということもありえます。
理屈上テレワーク読みも成り立つだけで、それを示唆する文言が入っておりませんので、私はこの読みを採用しませんが、疑義を避けたい場合は、「戻る」という表現に、なんらか現実の移動のニュアンスを含ませるのも一つかもしれません。また、もしテレワークの歌なのだとしたら、その手掛かりが必要と考えます。
ご利用ありがとうございました。
これは以前も別の歌に対して書いたのですが、まったく57577でない歌を「短歌」だとして提出するということを、私は「57577のものさしを当てられながら読まれることに覚悟ができた歌」だと考えています。
当然、この歌にどうものさしを当てても余りに余るのですが、この「57577」という概念は、「5つの数字」つまり「5つの部分」である、ということも重要だと思います。
その観点では、この歌は、ながーく5つの部分として読むことはできると感じました。「ずっと!」の長さをどう取るかですが、比較的どれも長いので、バランスが悪いとも思いませんでした。
となるとこの歌は、本来であれば5音・7音程度しか入らない5つの箱すべてにぎゅうぎゅうに音を詰め込んだ印象がありますので、必然、早口に聞こえます。歌意は、それにフィットしているように思います。
また、心象のもやもやが「ガムのように重たさが変わり、やがて吐き出すと思われたくない」と捉える感覚は秀逸だと感じます。それを「飲みこんだ」ときに、描かれる「水底」が、自分の内面を拡張している印象を持ちますので、自分の中の底知れなさのようなものを覚え、情念としてひりひりしたものを感じることができました。
さて、この歌は、私は5つの部分と捉えましたが、
・ずっと! (字あけ込みでざっくり5音)
・ではあるけれど噛まれてゆく(7音と字余りの5音)
・ガムのように重たさは変わり、(句跨り的な7・7)
・最後には吐き出されるんだろう? って(字あけ込みで5・7・5)
・思われたくないから飲みこんだ(句跨り的な7・7)
・水底が急に深すぎるじゃないか(7音と字余りの7音)
として、乱暴に575775757777の韻律で整理することもできると考えます。これはこれで、一つの定型詩をなすパターンと取れるのかもしれません。とはいえ、短歌として提出なさっている中で、私はどこまでいっても、これを57577で読みましたし、それでいい歌なのだろうとは考えます。
ご利用ありがとうございました。
つまりは、ずっと一緒にいようという歌意なのだとは思います。「6時なったら」のあとに「7時なったら」と続くことで、この歌の「ルール」はわかります。一緒になにをしたいという「読者が一瞬予想する展開」は引き伸ばされつづけ、最後まではぐらかされるのですが、その企みに乗ったことで、この歌が語りかけている「あなた」は、主体とこれだけの時間を共にしたことになる。どことなく漫才っぽさもあるようなユーモアで、面白く思います。
一方で、この歌の終わりを決めているのは、「9時」という「概念」ではなく、「短歌の構造」である、ということは気になりもします。
例えば意地悪に、「じゃあ9時したら、10時は一緒にいなくてもいいんだよね」とこの歌を読むこともできますが、恐らくそうではないと思います。また、例えば短歌の韻律が「5757777」だったとしたら、「ねえいっしょに6時なったら7時なったら8時なったら9時なったら10時なったら11時しよう?」だったかもしれません。
要するに、この歌で現れる時間は、どれも等質な意味合いをもち、本来的に「歌を終わらせる能力」を持っているわけではないと思います。
ここは悩みどころで、私はあまり好ましいと思わなかったのですが、短歌の構造をオチにもってくるやりかたがいいし、面白いという意見もあると思います。ですのでこれを改善案として提出するわけではないのですが、ちゃんと歌を終わらせたい、という意図を優先するのであれば、やっぱり、「寝よう?」みたいに、具体の動作をもって落としにかかり、「一緒にいた時間」を創出したほうが、成功するとは思います。
とはいえ、「9時しよう」という言い回しはレトリカルで、これが持っている抽象的な時間の掴み方はよいとも思います。これを捨ててまで具象の動作を取るのかと問われれば、私自身もちょっと……とはなります。そういう意味で、全方位で読者を納得させることのできる歌にはならないような気はします。もっとも、そんな歌があれば私が書きたいです。
ご利用ありがとうございました。
今回は以上です。宣伝だけさせてください。
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