評bot 17
今回も始めます。趣旨は下のツイートをご参照ください。なお、ご利用者様は敬称略にて失礼いたします。
熱帯の摩天の森を抜け帰る蛍光灯が点かない部屋に /ヒプノ寿司マイク
景が、どこなんだろう、というのがあります。「摩天の森」といえば、空まで届きそうなうっそうとした森を想起します。「熱帯」ですし、密林のジャングルみたいな感じ。そこから「蛍光灯が点かない部屋」に帰るということで、まあそうですか、となっちゃうところはあります。ジャングルがベースなら、です。そういうところの建物の部屋って、インフラがちゃんとしていない感じがありますし。
しかしそういう歌ではない気がしていて、我々の生活圏のことを詠っているのかなと思ったりします。こちらも夏は蒸し暑いですし、「熱帯」といっても大丈夫な気がします。「摩天」も、建物のことなのかもしれません。そういう、日常の暮らしが野性の文脈で描写されている、という読み筋のほうが、歌としてグッとくると思います。
が、そう読み切れないのがどうもなあ、というのが正直なところです。説明しすぎはよくないですが、実景をうまいこと詩に落とし込むことを第一目標としすぎてしまった歌のような気はしました。
ご利用ありがとうございました。
母が好きだった洋画をひとり見る エンドロールに浮かぶ十字架 /月城かいん
映画のエンドロールに十字架が浮かぶんだ、と意外に思いましたがそういう映画もありそうです。「好きだった」という過去形が、「もう好きではない」という可能性が残るものの、なんとなくもうこの世にいない、あるいは自分との距離が遠くなってしまった母というものを思わせます。それが「ひとり」と結句の「十字架」による感慨なのは間違いないと思います。
その線で読めば、母を想起する映画を観たらエンドロールに十字架が現れて、その意味での母をまた想起してしまった、というところになるのかなあと思います。いい詩情だと思います。
一方で、この歌には二つの「現在」があります。映画を観だしたときと、見終わった時です。字あけの前後はどちらも現在です。当然、それでもひとつの時間軸が短歌に生まれているわけですが、そうはいってもこの歌の「現在」って「十字架のほう」なんじゃないのかな、という気がして、上句と下句の接続がこれでよかったのかな、というのはありました。とはいえ、ここは作者の裁量の領域だと考えています。
ご利用ありがとうございました。
今回は以上です。
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