自選五十首評11 水沼朔太郎さん

どんどんやってゆきたい自選五十首評の第11回になる。ちなみに第12回までは決定しています。そこから先があるかどうかはあなた次第です。

今回取り上げるのは水沼朔太郎さん。今回、というか、僕がnoteで一番取り上げている歌人なんじゃなかろうか。『ベランダでオセロ』を共著で出したり、オンライン歌会を一緒したり、なんやかんやで近い場で短歌をやっているライバルなので、送られてきた歌も知っているのが多かった。や、たぶん知ってるのはほとんどで、覚えてるのが多かった。

それはさておき、評に移っていこうと思う。

出勤前に慌てて駆け込むトイレから換気扇越しに聞く雨の音

水沼さんの歌は基本的に自分のことを書く。それは僕もそうなんだけど、もっともっと自分の感じたことを、感じたままに、書く。そうすると歌に面白いポイントが起こるかっていうと、なんか起こってる。感じたままに書いていることが、水沼さん的にも引っかかりを覚えたことだからなのか、作為的に面白ポイントを演出する人(自虐的に言うと僕だが)ではないにせよ、それが提示されている。

出勤前に慌てて駆け込むトイレ、わかる。トイレから外の音が聞こえてくるならば、それは窓か換気扇だ。換気扇なんだ、ってわかったことと、雨の音の落ち着いた感じとトイレに慌てて入った感じの対比。の、気持ちとかオッとなるところとかが、端的に言語化されているわけではないけど、伝わる。

左からまったくおなじ貼り紙を3枚並べたことで伝わる

これも面白い歌なんだけど、なんというか、面白いことを言おうとしていない。同じことの繰り返しってそれだけでわらっちゃって、「ごみを捨てるな」なのか「廊下は走るな」なのかは知らないけど、そういう貼り紙が三枚あったらもう面白い。なんでそんなにあるのかって、聞いてほしいからなんだろうけど。それだけを言っているのだ。これは、「貼っている」ことにフォーカスせず、「貼って→伝わる」という一連の流れを述べているからだと思うんだけど、これまた感じたことを感じたままに、言っている。そういうところに宿る面白さには、自覚的な人だなって僕は思っている。

すみませんぼくは餃子を食べてきたラーメン食べて火傷もしてきた

別で言及したこともあるけれど、まあ正直な歌だ。ふつうはラーメンを食たうえで餃子も食べてきました、の順番なんだろうけど。やけどが大きくてこの順番になったんだろうね、みたいなことを僕は書いていて、今もその通りだと思う。これはまさに、水沼さんの実感なんだと思う。もちろん、歌の事実にフェイクは入っているんだろう。でも、実感ベースでは本当にそうだった、ような気がしている。

この、実感に正直というのが水沼さんの歌を読むうえで特に感じているところなんだけど、じゃあそんな水沼さんの歌がわかりやすいかっていうと、そうでもない。感じたことを感じたままに書いているようであるが、どういうことだ?と思うこともある。それは、実感を歌にするにあたって、読み手に与えたい情報の量と方向を調節しているのではないだろうか、と感じることがままある。

無意識に弁当を買う弁当はこれが最後になるかもしれない

まさに、行為と実感の組み合わせの歌だ。しかし、どういうことだろう。そりゃ、死ぬ可能性もあるから、弁当はこれが最後になるかもしれないというのは真だ。でも初句の「無意識に」が、どうも弁当すべてに効いている気もする。無意識に弁当を買うって行為が最後かもしれない、というかかり方。これからは絶対意識するんじゃなかろうか、みたいな実感。のような気もしてくる。そのあたりのはっきりさせなさは、情報量の調整なんじゃないかなと感じる。

(余談。水沼さんとお互いの歌の話をするときに、しれっと自解をもらうこともあるのだが、けっこうあっけらかんと「こんなことがベースでこんな実感があった」ことを教えてもらえるときがある。半分くらいは、それでこんな書き方になるのかー、と思う。実感から言語の変換に、独特なプロセスがある歌人だな、とは常に思っているけれど、それは歌人評として「ここまで」の話しかできそうにないから、カッコを閉じたらこの話題はおしまい)

めちゃくちゃな缶コーヒーが飲みたいな牛乳だけでは再現できない

僕の一首評ブログ「ひざがしら」でも取り上げたので歌評はそちらにゆずるけれど、この言いたいことを言ってる感、僕はすごく好きだ。きっと「こう読まれたい」はあって「実感としての真実」はあってけれども「ぶれて読まれてもかまわない」ような書き方になっている。気がする。

説得力の高いあなたの箇条書き一度画用紙に書いたのだろう

なんというか、好きなんだけど、共感も、できないことはないんだけど、そこ?みたいな実感が面白い。とりあえず、説得力の高い箇条書きは想像がつく。で、画用紙に書いた?と思う?ところの面白さ。なんとなく、理におちる事実はありそうだ。ただ、そのあたりを示さずにいきなり「画用紙」は面食らう。

それでも「箇条書き」「画用紙」が線で結ばれることによって想像できる背景は、いい感じに自由かつ不自由でよいなあとは思う。まあ、読者がそこまで楽しむことを水沼さんは想定していなくて、とりあえず自分の面白いように記述されているだけかもしれないが。短歌ってそういうものだと僕は思っているし。

借りた歌集に意中の歌がまだ来ない乗り換え前にまみえたくまみえたく

実感の話ばかりになってきたから、韻律の話をしたい。僕は水沼さんの歌で分からないと思ったものはたくさんあるが、韻律が悪いと思った歌はない、かもしれない。それくらい、定型のはみ出かたが音として「大丈夫」だと感じる。「まみえたくまみえたく」の結句、いいリズムだ。

観覧車に乗って観覧車が見たい観覧車から観覧車見えない

この歌も。「かんらんしゃに/のってかんらん/しゃがみたい/かんらんしゃから/かんらんしゃみえない」まさかの観覧車が四回リフレインされるという力業の歌でもあるけれど、二句から三句にかけてのまたがりや、結句の字余りが定型っぽくはないが、読んでいて心地いい。

どうも水沼さんは、短歌を57577というよりもう少し細かい音の組み合わせであるようにとらえておられる気がする。だから、その組み合わせが5や7を超えたとしても、大丈夫なように細かい組み立てができるんじゃないだろうか。この点はすごく参考にさせていただいているところ。ちなみにこの歌は、よくよく考えたらどういうことなんだ。観覧車に乗って同じ観覧車を見る話なら、できると思うけど。違ったのかな。でも面白い。

セブンイレブンのお箸ばっかり増えていく合間合間で乗る観覧車

観覧車つながりで行くと、こっちの歌も面白い。事実としては、そうなんだろう。セブンのお箸が増えるってことはそこで買い物をしている日常がある。その合間合間で観覧車に乗っている。きっと主体にとって観覧車に乗るイベントと言うのはそんなに多数あるわけじゃなくて、たまたまかそれが複数回あったんだろう。だからこの歌が示しているのは事実。けど、その実感として、日常の合間合間に観覧車があるのはわかるけど、その日常の象徴がふえていくセブンイレブンのお箸、というのがなんとも、そこを切り取りますか、といった感じなのである。

母親が入院してから母親に似ている人が増えたんだよなあ

水沼さんのプライベートな話になるから言及は難しいが、ときおりツイートで母親のことをツイートすることからすると、この主体が水沼さん自身でもおかしくはないような歌から。これもかなり主体独自の実感だと思うんだけど、なかなか鋭い切り取り方だなあと感じて好きだ。母親が入院することで、母親に付与される属性がある。それを通して改めて見る母親があるからこそ、それを周囲の人に当てはめられた、の順番である。

だから厳密にいえば、母親が入院したことによって、周囲の人っぽさが母親にもあったんだな、ということになるんだろうけど、それを母親ベースで実感することが、主体の中での(愛憎は別として)母親との関係性なのかな、と思う。

さまざまな歌があるけれど、事実と実感、韻律の組み立てといったところで水沼さんの歌は語りやすいな、と思う。まとまった数を読んでも景はバラバラではあるものの、すごく、同じ人がしゃべってるな、と感じるのだ。

暖房の24度と冷房の24度はどうして違うの

これホント好き。そりゃ「上げる24度」と「下げる24度」だからでしょうよ。という理屈の前の話をしたい歌なんだから、こんな理屈はいらないのである。

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