見出し画像

7月 雑感

毎年この月は誕生日を迎えることができ、それにより33歳になった。自分が何歳かどうでもよくなったのは、正直20代の後半からそうなのだけれど、それでも30の節目は感じるものがあったし、いよいよそれが本格化してきたかもしれない。

10代の頃から、自分はこれを一生やるんだろうなみたいな趣味があって、あり続けているんだけれども、やっぱりこれが移ろう。
学生の頃は、ミステリを読んで書いてするんだろうがあった。社会人になれば回文などの言葉遊びがあって、そのうち短詩があった。結婚したらゲームと映画が出てきた。最後のはさておいて、それ以外は表現系の趣味だから、やってるうちは自分のアイデンティティになるのだけれど、それでも、移ろうなという実感がある。

もはや今、短詩ですら自分のアイデンティティになくて、自分で面白い。ただ、それはネガティブなことではなくて、いまだに「ミステリ好きだよね」って言われたり、「回文の人だ」って言われたりするわけで、そうするとまたちょっと戻ったりする。
これからの人生は、そういうサイクルがあるよなという実感で趣味を楽しむことになりそうだ。その意味で、30代になって人生観の変化が現れてきたように思う。自分の死をしっかり意識したときに、また変容がある気もする。


そういう意味では今年の健康診断は面白かった。端的に言うとわけわからんくらい健康になっていたのだ。
もとから、健康診断でひっかかる要素は少ないのだが、なんかちょっと基準からはズレてますよね、みたいなのがちらほら見つかっていた。赤血球の数とか。そういったものが軒並み基準内の年で、運が良かった。

驚いたのは体重だ。正確にはわかってはいたので再認識といった具合だが、一年で8キロ落ちた。74から、66である。
もともと僕は70を切るくらいを目安で20代をやっていて、結婚2年で74までいった。コロナ太りと言えばそうなのだけど、体重のピークはそれなりに外出できるようになってから迎えたので何か原因がありそうだ。
それが何かはわからない。だから、今年なんで落ちたのかもわからない。しかし社会人以来最軽量な気がするし、スラックスを通すベルトはぶかぶかで、長さ調節をしなければならなくなってきた。会う頻度の低い同期から、ガチめに「痩せた?」と訊かれた。
ここまでくると健康的にどうなのだろうとは思いつつ、体と向き合っていくしかあるまい。
とりあえずちゃんと食べるものは食べているアピールもしよう。ヘッダーのカレーはそうです。


最近はほとんどTwitterをしていない。非公開アカウントがメイン運用だけど月に数件しか投稿しない。ほとんど阪神タイガースの情報を集めるばかりだ。
ところが、「おすすめ」TLに出てくるアカウントが最近怖い。今までは投資アカウントとか、思想アカウントとか、まあこういうのがくるのは分かるわねといったものが多かった。今はこれを出してくるのかと思いながらミュートするのも楽しいものだ。
それが、なんか、僕の仕事と同じ界隈の人のアカウントが出てくるようになったのである。

あんまり書くことじゃないかもしれないけど、まあ、端的に僕は企業法務をやっている。そのことをTwitterで書いたことはないと思う。にもかかわらずサジェストしてくるのはすげーな。感服するぜ。
おそらくだけど、そういう法務アカウントを何かのきっかけで目にすると、僕はそのアカウントのツイートをいくつか眺める、ということは何度かしていたと思う。だから、情報の取り方の傾向としてわかられたとすれば納得できる。現に、今でもおすすめに出まくるのは野球関連だからだ。
ただ、こういうのって、「あーこれよく見てたから出ちゃうか」って納得があるレベルのものがサジェストされるように感じていたので、今回みたいに「えっ、サジェストされるほど自分は見ていたのか?」と思わされるのが、今のITの底知れなさに繋がるように感じられて、ぞくぞくする。もう、個人情報なんてどうでもいい世界になりつつある気がする。

ところで、巷の企業法務アカウントの人、自虐に走る人と自分はできます系の人とに分かれるなと感じていて、後者はイラっととしつつ、なんか共感もする。法務って正しくてもそれが会社の進め方に活かされきらないところがあるし、言いたくなるのかな、みたいな。


インターネットつながりで言えば、AIイラストの精度的なものがぐんぐん上がって話題になる中で、自分の中でハッとすることがあった。
近所にすき家があるので広告を毎日のようにみているのだけれど、この夏の「うな牛」の広告がドーンと店の前に置かれていた。麦わら帽をかぶった女性がおいしそうにほおばっている広告だ。

僕はそれを、第一印象で、AI生成画像っぽいなと思ったのだ。

すき家がそんなことするわけないなと誰なのか検索したところ、なんとびっくり石原さとみであった。知らないわけがない顔である。そう思って見たら確かに石原さとみだ。ここで疑問に思う。なんで僕は、石原さとみの写真をAI生成画像っぽいと思ったのだろう?

その写真の石原さとみは、なんというか、整いすぎているところはあると思う。だし、加工とは言わずとも、よりよく見えるような画像処理くらいは施されているはずだ。目のきらきら感とかね。これはしばらく考えてもわからずじまいだったのでこれ以上深まるトピックではないのだけれど、何かを見た時の「っぽい」がどこからくるのか? それが今どれくらい解明されているのかはちょっと気になった。
高校生の時、だからもう15年も前になるけれど、顔ニューロンというものを学んだ。人間には特定の顔に反応する神経細胞こと顔ニューロンがあるという。初めて聞いたとき、そんなものがあるのかと愕然としたものだ。ただ、だからこそ、ニューロンの力で説明がつくものなのかもしれない。

妻の実家へゆくために、新幹線に乗る。駅にはいろんな宣材写真がある。広瀬すずと、綾瀬はるかがいて、そうだとわかった。顔ニューロンによってなのかしら。


妻といえば、ご存知の方もいるかもしれないが、エキセントリックな人間である。そしてそれは見る夢や寝言にも現れていて、ぶっとんだことを聞かされてはよく笑わされている。
その中で、けっこう昔聞いたものなんだけど、今僕の中で評価が急上昇しているものがある。

「西村京太郎10連ガチャを引いた」である。

なんつうか、ぶっとび具合は合格だと思う。その上で、つまりは「そんなもんねーよ」を前提に、「やったら、できるかも」「できたら、ウケるかも」を孕んでいる。ここがすごいと思う。
西村京太郎のガチャは、できる。あんだけ著作があればできるのだ。レアとスーパーレアとウルトラレアも作れるだろう。そんなものはないが、できる。し、ほんのちょっぴり面白そうである。

やっぱりこういうのを発想できる頭のことを天才というのだろうなと思う。なお、妻は西村京太郎の著作を読んだことがなければ、ドラマも見たことがないそうで、自分が引いたものは「チキチキ雪山山荘殺人事件」だったとのこと。面白いが、ここまでくると「そりゃねーよ」の域である。


新幹線での駅弁を、柿の葉寿司にした。パッケージにイメージ写真が載っていて、「写真はイメージです」と書いてある。それどころか、「実際は尾のほうが薄くなります」とも書いてある。
景表法のことを考えたら、もちろんこのような記載が会社側にとって安牌なのは間違いない。でも、この表示を入れるようにした経緯が、自主的な気づきなのか、行政指導なのか、消費者からのご意見なのか、業界での取り決めなのかは気になるところだ。正直、書く必要がないことのように思うので。これも小さな社会の動き方だと思うのだけれど、それはどうドミノが倒されて動いたのだろう。そして僕は、これまでにどんなドミノを倒してきたのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?