自選五十首評⑥ 野村日魚子さん

その人が自選くださった五十首をもとに、その人の作歌傾向などを考えて言葉にする、練習をさせていただくコーナーの第六回になる。時間があいてしまった。練習させてもらうとか言っといて、あまりお待たせするのはよくないけれど。

今回は、野村日魚子さんを取り上げさせていただく。五十首もらったの、二か月近く前なのほんとすみません。短歌や川柳など、後述するが定型にとらわれすぎずに短詩表現をされている方だ。小祝愛の筆名で、作品発表もされている。いただいた五十首に両方の名義のものがあったので、一応明示させていただいた。ご了承ください。そしてご協力ありがとうございます。

さて、それではさっそく見ていこうと思う。

すけすけのやわらかな餃子折りながら考えている死後の埋葬

野村さんの歌は、いくつかのモチーフが繰り返し使われている。五十首の中でもそれは目立ったし、まずその一つに「死」があげられる。もちろん、死は短歌のテーマとしてよくあるもので、野村さんに限った話ではない。けれど、たとえば「身近な誰かが死んだ」のようなエピソード死ではなく、概念としての死を思っているのが野村さんの特徴といえるだろう。特徴というか、興味なのかもしれない。

掲出歌、焼く前の餃子の「すけすけ」の透明感あふれる表現がはかなさを想起させて、「埋葬」ではなく「死後の埋葬」を考えている。埋葬であれば死後は自明なはずだけど、つまりは過程として死を必ず経るわけで、そこまで考えているということになる。日常のちょっとしたきっかけからそこにつながっていく思考が、一つ傾向としてあるなと感じた。

百年たてばみんな死ぬって力強く言われてすこし驚いて眠る
飛び降りる人がときおりいるビルと友だちになる 星が近いね

じゃあ死にたさがあるのか、と言えばそういうのは薄い。死とはほかに、犬などの動物のモチーフも多用され、またそれが結構歌の中で死に関わるのだけど、それは死への願望というより興味の印象を受ける。

掲出歌の前者にしても、「驚いて」というのはどこか不死性を信じているかのようだ。後者、「とびおりるひと」と「ときおりいるびる」の音の近さ。順列アナグラムのような親和性が気持ちよく、しかしテーマは自殺だ。野村さんの歌に多いモチーフとして夜や夜空もあるが、それはどこか天に昇っていく死者を見据えているようでもある。

誰もが死ぬとか、死にたいとか、そういう心に密接した死を詠っているというよりは、死があって、なんで死ぬんだろう、を素朴に考察している姿勢がある。と、こう書くと、主体の心の在り方がフラットで冷たいようだけど。

しゃぼん玉なんども食べようとしてるゾンビになってもきみはきみだな

解読の難易度は高いかもしれないが、ゾンビはとりあえず動く死者ととらえていいだろう。それが、ホラー映画みたいに人肉を求めず、シャボン玉をたべ「ようと」している。ほんとはゾンビだから人肉なのかもしれない。それが、「きみ」たる所以なのかもしれない。

突飛な景だし、でも今あるフィクションの知識で理解できる想像だ。物質の死、心の死、ゾンビ、そういうところをもって死を定義したい、みたいな姿勢を歌から覚えたわけではないけれど、これら歌群から感じるのはやはり、野村さんの死に対する「不思議」だ。不思議がまずある。そのあと、主張があったり、実感があったり、描写があったり。でもないときもある。ただ、不思議はある。

死者の国抱えて走って行くみたい夜のファミレスから見るバスは

バスのモチーフもよく使われていた。なじみがあるのかもしれない。前の歌と違ってあり得る景だけど、なんだか向こうがあり得ない景の日常だとしたら、こっちはありえる景の非日常だなと思った。でもこちらも、死者の国なるものに思いをはせている。それがあるとかじゃない。野村さんがオリジナルに思い付いたものではないだろう。むしろ、なにか元となる考え方があるからこそ、オリジナルたる死への想像力は多様化する。

バスを降りてきた人たちみな口々に話す隕石のかわいいなまえのこと

あまり同じことを繰り返しすぎてもなんだから、韻律の話もしていきたい。バスの歌つながりで引いてきたが、この歌の韻律はどうだろう。大破調とは思わないが、思う人もいるかもしれない。ちなみに歌として、かわいい。そんなものがバスの中で共有されてたの?と思う。SFはサイエンスフィクションだけれど「すこし・ふしぎ」だと藤子不二雄が言ったというのを朧げに覚えているが、この「すこし・ふしぎ」が横溢している人、というのが野村さんを「究極に乱暴にレッテル貼り」したらなると思う。

韻律の話に戻ろう。僕は「バスを降りて/きた人たちみな/口々に/話す隕石の/かわいいなまえのこと」と読む。6・8・5・8・10か。まあ、個人的には結句は8音ちょいくらいに感じるのだけど、これは別に文章にします。

野村さんは、短歌の定型のある種の暴力に意識的だと思う。意識的というか、逃れたい気持ちがあるように感じる。ただ、短歌として発表に足ると考えてはおられると思うし、事実送られてきた五十首のほとんどが短歌的には破調なのだった。しかし僕は、野村さんの歌のほとんどを、音数はともかく、短歌的に五つのパートに分けて読めた。

遠回りに使う道とその道に住んでいる人が遠回りについて思っていること

これもそう。「遠回りに/使う道とその道に/住んでいる人が/遠回りについて/思っていること」と読んだ。6・11・8・9・8となるから音数を書けばかなり余っている。それでも何となく、初句と三句の音は少なくて、五つに分かれて読める。またこの冗長さでけむに巻こうとしているような感じは、そのまま歌の回りくどさの表出になっているから、いいと思う。

何もかも短歌の定型から離れはせずに、短歌の枠に縛られたくないという思いを感じたのは、きっと歌をたくさん読んだからだと思う。ご本人にそこまでの意識が仮になかったとして、方向性としてはあると感じる。

あったかいパンが入っていた袋曇っていて曇りごと捨てる

これは前から知っていて好きな歌なのだ。日常に潜む「曇り」のポジティブさ。あったまったパンのあったかいところ、を、捨てる言い回しが暗くていい。この歌も「あったかい/パンが入って/いた袋/曇っていて/曇りごと捨てる」と分けられて、5・7・5・6・8とかなり定型なんだけど、すごいのは下句の6・8が句跨りを含むものと全く感じないことだ。一般的に一字だけまたがる句跨りは気持ちがよくない印象を与えるが、これはもはや、句跨りで読まれることを拒絶しているような韻律。この、伸び縮みするような韻律が、とても面白い。余るだけじゃなくて、明確に足りないものを使ってもいる。

なんでも教えてくれた人はもういなくて木の?たくさん生えた?場所?を歩く
雨を雨とわかることがうれしいよ 傘を投げ捨てて帰る走って帰る

この二歌もそう。クエスチョンマークや字あけを使って、五つのパートに分けさせる場所を誘導してきていると思う。前者、とくにそのクエスチョンマークの音の誘導と思考の混乱がマッチしていていい。後者、下句の音のつまり方が急いでいる印象を与える。ただ定型から逃れたいから破調をしているようでもあるが、僕はそれが一定の効果をあげている歌も多いと感じた。

前半と後半で違う話をしてしまったが、これは二つ語るべきものだと思ったので分けた。モチーフの興味。韻律の興味。うたうものとうたいかた。その両方にユニークなものがある、これからも追っていきたい人だと思う。

いずれ死ぬ人のことを想うとき春なのになんで一面の雪?

知らないよ。でも、この五十首中五十首目に書いてあったこの歌を読んだとき、ああ、野村さんはこういうことをこういう韻律で語ってきそうだと思った。バランス感覚にすぐれたいい歌だと感じた。

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