自選五十首評② 濱松哲朗さん

五日ほど前にUPした、自選五十首を送付いただいて、それをもとにその方の歌人評を書くという、個人的な企画というよりは文章の練習の第二弾となる。自分語りで恐縮だけど、僕はものを考えるのは好きなものの文章を書くことはとても嫌いだ。でも書かなければ考えたことは伝わらない。まいった世の中だと思う。

とはいえご協力してくださる方には感謝です。ありがとうございます。さっそくやっていきましょう。

今回取り上げるのは濱松哲朗さん。結社「塔」、同人誌「穀物」所属の、おっとこんな方からも送っていただけるのかと気合が入るような方だ。時評もよく担当されていて、短歌に対する知識も僕に比べて段違いだと思うけれど、あくまで僕から見た濱松さんの短歌評というものを、繰り広げていこうと思うので変な身じろぎはしない。よろしくお願いします。


濱松さんの短歌を一言で表すキーワードはない(あったらちょっと歌人としては画一的すぎるかもだけど)なと感じたけれど、トーンとして静かな、理性的な目線からの詠みが多いようには感じた。

欲望も願望も展望もない 家賃は明日引き落とされる
笑つたはうがいいと思つて空を見る 僕は雨宿りに慣れてゐる

視線が主体自身に向いている歌から。生活に根付いていながら、どちらかといえば苦しい、つらい心の動き方をしているなと思う。掲出一首目、欲望・願望・展望と望みがだんだんと将来に向かっていきながらすべて否定して確実に来る現実を突きつけ、今を生きるしかない状況を描く。二首目、「笑つたはうがいい」のならば笑っていない主体。空を見て思い出すのも雨宿りのことばかり。

短歌として正解なのかもしれないけれど、食べ物、日常風景などを切り取りつつ感情を乗せるやりかたについて、傾向として主体自身に厳しい。それが自虐の路線に行っているわけではなくて、苦しい・つらいに向かい合ったときに、それが言い訳の利かないものだと判断して歌が生まれているような、フラットな視線を覚えた。

あの頃に戻りたいとは思はないさうすれば父がもう一度死ぬ
人はきつとゆつくり死んでゆくのだらうゆつくり生きてゆく為に死ぬ

死生観を示す歌もいくつかあって、どれも前述のフラットな視点に基づいているように思えた。引用三首目、父の死という強烈なものを示すレトリカルな歌だが根幹は死の「動かなさ」だと思う。「戻る」仮定も「過去を変える」発想にはならない非情さ。四首目、じわじわ滅びていくような死の感覚は、まさしく主体の思想を体現しているようだ。

通読していくと、静かでネガティブな思考の裏には常に分析があると思う。事象と感情の双方を記述したとして、事象が勝つというか、動かない。自分はそう思うけれどそうはいってもこういう現実がある。それに対する分析と静かな口調が真に迫っている。

バス停がいくつも生えてくるやうな雨だねきつと海へ向かふね
読みさしの詩集のやうに街があり橋をわたると改行される

とはいえそういう歌ばかりではなくて、僕の特に好きなレトリカルな歌もしっかりあってうれしい。どちらも比喩の歌を引いてきたけれど、比喩を設定してからそれを動かすような面白さがある。バス停が生えそうな雨ならばそれが流れて行って海へ向かうという広がりがあったときに、バス停に自由が与えられるように感じる。街を詩集にたとえ、たとえた後に橋を渡ってからを「改行」とたとえの文脈に持ち込むことでたとえのほうが現実化するような気分になる。

双方ポジティブな感情も読めて、もちろんそういう主体もあってしかるべきなのだけれど、前述のネガティブな主体の思考と、理性的な形の方向性は似ていると思う。つねに現実の分析がある。感情はあっても現実に勝らないような印象。

というのは、実は五十首全体の話ではない。傾向としては多めだと思うけれど、濱松さんの歌には、時折ぐっと感情がふくれあがったり、その予兆があったりすることもある。

やがてわれも人間をやめる日を迎へとぎ汁のごとく流れてゆかむ
にんげんのこゑは背骨を狙ふから削ぎ落したるみづからの翅

そういった予兆の一つとして、「主体の異化」があるのではないかと感じた。「やがてわれも」の歌はまだフラットだけれど、これは自らの死を詠っているようではない。なにか、溶けだしてしまうものに変貌するような予兆。自分が自分でなくなるような予兆だと思う。「にんげんの」の歌は必ずしもそう読む必要はないのかもしれないが、主体は「翅」のあるものになっている。初句の「にんげん」が、他者を描く言葉になっていて、そうすると一層主体は蝶のようなものに感じられる。

このあたりの歌には主体のどうしようもない心情があって、その先に感情が爆発するような(それは激しいのか、静かなのかはさておいて)予感がする。そんなとき、歌が異化するものは周囲ではなくて主体である傾向がある。それってきっと、自虐によらない分析的な詠みかたも関係しているように思う。どこか周りのせいにしないような、自罰的な、そういう発想からの歌作りが垣間見えてくる。

あの辺に雲の終はりがあるといふ定説 もつと断罪したい
わたくしの傷は旨いか 薄氷を踏みぬけば満たされて おまへも

ぐっと感情がふくれあがる歌で、いいなと思ったものを引いた。引用九首目、「断罪」というとても強い言葉がある。「もっと」だからすでに断罪はしているのだろう。それは定説を受けて、「終わり」を疑うような激しさでもある。十首目。傷を負った主体を肴にされているらしき状況だ。薄氷を踏みぬいた先に「満たされる」のは、そんな主体を見て得られる優越感の象徴ととれつつ、薄氷の下の冷水の印象もあって、深い沼のような感情とよくリンクしていると思う。

口調が激しくなるというわけではないにせよ、平常的な詠みのテンションが「ため込み型」で、それが「解放」される、そんな人間性を受け取れるような歌作だと感じる。そのどちらも、理性は捨てきっておらず、むしろ常に第一線にあり、分析が揺らいでいないのが濱松さんの歌の特徴かなと思った。

また、切り取る情景の温冷感として、冷感を切り取るほうがとても多い印象があった。それは主体の特性として、熱いものよりも冷たいもののほうに心が動くのかもしれない。というのは、なんだか歌の空気とマッチしているようにも思う。

てぶくろを雪にうづめることばかり考へてゐた それほど赤い

それに、冷たいものを切り取ったからと言って、そこに込められる感情も冷たいものであるとは限らないのだ。掲出歌、再三の繰り返しになるけれど、静かな分析に乗せられる感情に、僕は熱いものを覚えた。とても好きな歌だ。

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