2023評bot (8)

評botの公開評をここでまとめています。どうぞよろしくお願いいたします。
一度の記事で最大4評とし、特に溜まっていなかった場合は1評でも記事にすることといたします。

趣旨はこちらのツイートをご参照ください。なお、本ツイートの募集期間は終了しております。

それでは始めます。なお、ご利用者様の筆名は敬称略表示とさせていただきます。ご了承ください。


生活の リアルを君に再放送 全12話のバッドエンドを
/らりるれ論理

2023評bot039

完全な分かち書きではなく、初句と二句のあいだ、三句と四句のあいだにだけ字あけがあるというのが、特に作者の意図がないかもしれませんが、個人的には意図を取りに行けるところだなと思います。三句と四句のあいだがあくのは、普通かなと思いますが、初句と二句のあいだのほうは、普通はあかないように感じます。

それはさておき、「リアル」を「再放送」というのはなんだかおもしろいです。「リアル」の放送は、生放送になりがちなんですが、例えば短歌として書かれる時点で、いくらその現時点のことを詠んでいても「再放送」なんですよね。「全12話のバッドエンド」という、悪いのが決まり切ったコンテンツも、なんかうまいこと言っているだけだな、と私は思いがちなのですが、「再放送」と言われると、重みが増すように思います。もう、この、「バッドエンド」 は、あって、「君に再放送」。なるほど。

「生活のリアル」という言葉は、ちょっと上滑りしているように思うんですが、ここに字あけがあると、しっかりとどまっている感じもあるんですよね。意味のある字あけというよりは、こういう呼吸でこれを言いたいな、という意思っぽいものを覚えました。「生活の」が、まず放り投げる歌い出し、みたいな感じです。

この歌の言葉選びは、好きな人もいるだろうとは思いますが、個人的には大味な並びだなと感じられるものでした。とはいえ、この一首から感じられる息遣いと、重層的な時間軸が、いいなと思うのも事実です。
「全12話」って、アニメやドラマの1クールくらいというのは分かりますが、それを誰がどういう分量で決めるんだよ、みたいなツッコミができてしまうところがありつつ、そういう全部を「再放送だから」で解決できている気がします。

ご利用ありがとうございました。


「神様と喧嘩したことがあります」面接に落ちたこともあります
/高遠みかみ

2023評bot040

例えば、

「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」

穂村弘『ラインマーカーズ』(小学館)

のように、カギカッコが二つ並ぶ歌であれば、まあここに会話があるのだろう、と類推できます。
一方でこの歌は、カギカッコつきとなしの、発話とみられる言葉が並んでおり、ただの会話ではない、どちらも主体という一人称の発話なのだということを示したいのかなとは思いました。

そうなったとき、普通は、カギカッコ付きの方を声に出した発話、そうでない方を心内発話として読むと思います。
それを当てはめたとき、この歌は「それらしさ」が逆転しているなと感じました。神様と喧嘩したことがあるだなんて、なかなか発話する機会はありませんし、逆に面接に落ちたことがあるなんて、何度も発話したことがあります。

神様と喧嘩ができる人物というのを思うと、端的にすごいんだろうなと。そういう人で、面接に落ちたこともあると言われると、ギャップを感じるのかもしれません。
個人的には、このギャップは、二つの発話が同じ地平にいるほうが素直に受け取れるんじゃないかなと感じました。つまり、この歌がカギカッコをわざわざ片方につけることで狙っていることが、いまいち伝わってこず、なくても一緒なのではないかと感じるのです。

ひょっとすると、この歌が指示しようとしていることは、上述の私の読みからは大きく外れたところなのかもしれません。その場合は、読み切れなくて申し訳ないですが、試みは伝わりにくいのではないかという気がしています。
個人的には、こういう二つの発話を、カギカッコの有無でくくっていくレトリックには可能性を感じます。片方が地の文で、もう片方が心内発話的な丸かっこ()でやる歌は結構見ますし、似たようなことかもしれませんが、こっちのほうがもっともっとイメージを放り投げられる気がします。

ご利用ありがとうございました。


なんだか遠くへ行って帰ってきたような顔だね 青い夕暮れ
/窪田悠希

2023評bot041

「ような」という比喩ですが、「遠くへ行って帰ってくること」というのは、ほぼ誰でもできることですので、それを比喩として使うことの面白さ、を思いました。
こう書くことで、この「あなた」は、遠くへ行って帰ってきては、ない。その「ないこと」を描写しつつ、こういう「顔」は、ちょっと疲れた様子を想起しますので、この「あなた」に何かあったのかな、ということを思わせ、歌の奥行きになっていると思います。

「青い夕暮れ」が成功しているかどうかは読み手によるかと思います。一般的に「夕暮れ」が青いことは珍しいことだと思います。かなり夜にさしかかったころの、夕焼けの赤もありつつ闇も見えている空だと、青味を感じなくもないのですが、なかなか想像がつきづらいです。
ここを想像させるというのもレトリックの一つなのですが、この「顔だね」のあとにもう一つ来るのは、私としては、負荷が高いかなあとは。

「ような顔だね」ですでに生まれた歌の奥行きを、さらに「その人の顔」から発散させていく方向は良いと思いますし、ここになんらかの広い景を把握すると歌としてきれいな着地となるようには思うので、もっとスッと入ってくる見せ方のほうが、いいようには思います。
とはいえ、ここは作者の語の選択、心の体現を優先していい領域だとも考えています。

韻律は、ちょっと気になりました。なんだか/遠くへ行って/帰ってきた/ような顔だね/青い夕暮れ、だと思うのですが、初句が字足らずなのと、初句七音が短歌としてポピュラーなことから、なんだか遠くへ/行って帰って/来たような、というような韻律感で最初は読んでしまい、ああ違うなと戸惑いました。
これは好き嫌いがあると思うのですが、「なんだか」のあとに読点ひとつ足すだけでも、解消できる部分だとは思います。ご検討ください。

ご利用ありがとうございました。


今かれの夜釣りを聴いている人がわたしの他にもう二人いる
/沼谷香澄

2023評bot042

誰、だよ。という疑問には答えてくれない歌だと思いますので、主体にとって「二人なんだ」ということが重要なのだと思いました。これが、
・二人もいる(多いな~)
・二人しかいない(少ないな~)
・二人いる(二人だな~)
のどれなのかは読み切れませんが、「もう」という言葉選びから、「二人しかいない」ではないような気がします。

夜釣りを聴く、というのが、これまた読みどころが分かれるところでして、
・現実に「かれ」のそばで聴いている
・個人のライブ配信的なもので聴いている
の両方があるだろうと。後者を明言するものがない以上は、前者で読むべきかなと思いつつ、私は後者でとりたいなという気持ちがあります。
「夜釣りを聴く」という、ほんとうに音に特化したような書きぶりと、「もう二人」というそれだけの情報が、しっくりくるからです。

配信読みをすると、なんだか静かそうな配信だなと思いつつ、それを聴く主体の周辺環境も静かなのかなという想像ができて、ひろびろとした空間が立ちのぼる良さもあるな、と思いました。
一方で、その読みだと「二人」というのが果たしてそうなのかというのはあります。そういう表示はされていると思いますが、あくまでアカウント単位の話なので、その先にひとりずつしかいないとは言い切れません。まあ、そこも含めて「二人」と思うのが普通だろと言われればそうなのですが。ただ、ここを工夫することで、より配信読みに近づくことにはなるかなと思います。
現実の「かれ」のそばだという表現であれば、ちょっとまぎらわしい表現が多いかな、とも思いました。

ご利用ありがとうございました。


今回は以上です。なお、次回でお寄せいただいたすべての歌に対する評のご回答が完了いたします。



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