『too late 2』を読む

前回ゲスト参加させていただきました、門脇篤史・道券はな・森本直樹の同人からなる同人誌『too late』の二号を読みました。江戸雪・楠誓英・笹川諒・嶋田さくらこ・辻聡之・山階基の豪華ゲストを含めた9人×15首の読み応えある同人誌です。わーい。

各作品中、特に気になった一首を引きながら感想と代えます。

いま我はなにを笑ふや皿の上に搾らなかつたレモンは残る/門脇篤史「檸檬」

特に前半は居酒屋の一連で、酩酊も合わさってはいるんだろう、自分を制御できていない感じの「いま我はなにを笑ふや」に共感できる。これはお酒を飲んでいなくてもやりがちだが、とくに「もしかしてやってしまったかも」の、分からなさは酔っているときが抜群だ。

この自分にとってのやばさは、やってないかもしれないがやってたら自分の中で取り返しのつかない笑いに紐づいていて、それが、まだ搾っていないから使えるけれど、たぶん料理は食べられてしまっていて役目を終えているレモンが象徴的に示している。連作全体としても、物質はレモン、概念は檸檬と使い分けてるのがいいなあと思った。

液晶のひびのひとすじひとすじに迷いこむ陽よ心細いか/道券はな「夕闇」

液晶のひび割れは短歌にしやすすぎる題材なんだけど、そこに光が入り込むという把握はおっと思うし、「迷い込む」だから、光が侵入していくさまがわかるような気がして好きだ。SFなんかでマシンが起動するときに光の線がだんだん伸びていくような演出があるけれど、そういう液晶の軌道のような印象も覚える。ひびなのにね。

結句の「心細いか」は液晶に射す陽に問いかけているようで、ようでというかそうなんだろうけど、そう見える「私」に言っているのと同じことだなあとは感じた。液晶はたぶん闇で、ひび割れにしか光は入り込めないんだろうな、そうしてその入り込めるところすべてに入り込んでるんだろうな、光だし、というのがよく見えてくる。

アパートの階段にある亡骸の蟬が胴から朽ちはじめたり/森本直樹「まるみ」

「亡骸の」「蟬」かー。と思う。それが蟬であり、亡骸であることはほぼ同時にわかるが、それでもまず「蟬」だろう。初見ではない感じの。亡骸だとわかり切っているものの。そして下句がその把握に説得力をもたせる。主体の、蝉の亡骸なる刹那的なものと過ごしている時間の長さを示している。森本さんの連作は今回個人的にすごく好きで、

一階の角部屋南向きの窓の朝の暗さにもたれ掛かった/同

序詞のように紡がれる上句が示すのは、明るいイメージなんだけど、それでもたしかに暗いときってある。そのギャップはあるんだけど、暗さのほうを主体は身近にとっていくんだなっていう、ちょっとダークな心理たちが、観察から導かれていて好きだった。

ぢごくだと母は言いたり言ってからあやまりにけり道ゆく犬に/江戸雪「林檎」

新仮名文語の歌たちに差し込まれる「ぢごく」の、地獄感が、母っぽい言い回しでリアルに伝わる。知らない母なのに。そのトーン、気持ち、それらがおそらく主体に向いていない。母を取り巻く環境が母をして言わしめたような瞬間。「言いたり」が、主体と母の距離を思わせる。

そう言った母に罪悪感は芽生えていて、主体もそれを聞いているであろうに、犬に謝っているのが、母の閉ざされた心もようをさらに浮き足立たせている。この景は、伝聞調で描かれるならまだしも、主体がそこにいて繰り広げられるにはどこか異様だ。三回くらい、主体が母の前に認識される余地があるようで、そのすべてが拒まれていた。

看板に描かれし少年白のなき枇杷の実ほどのまなこをもてり/楠誓英「さざんくわ」

看板に書かれるような少年の、白目のなさってなんの不自然もなく受け入れられるなぁっていうのをまず歌でもって認識できた。その上で、こう書かれたらちょっと怖いなあ、ってなる。「白のなき」は、「まなこ」にだけかかってるはずなんだけど、どこか当たり前の「枇杷の実」にもかかってるようで、それがぞっとする。

きっと、看板に描いてあるって書いてあるにもかかわらず、それがリアルな少年なんじゃないか?って気がしてくるのだ。「まなこ」「ほど」あたりの言葉のあっせんが、そういう気にさせるのかもしれない。少なくとも、枇杷の実というリアルなものに比べられる少年の絵が、枇杷の実に寄っていっている実感がある。

誰にでも言葉が溜まりやすい場所があるから僕は手首のあたり/笹川諒「原光」

「あるから」までは、言葉の溜まりやすさに不随意性がある気がするのだ。どこかはともかく、それは自分で選べないところではないような。普通に考えたら喉だったり頭だったりすると思うんだけど、その一般性を「手首のあたり」は裏切ってくるし、しかも随意な感じも与えてきて、じゃあ、選んで、手首なの?っていう気持ちになる。

手首に言葉が溜まっているひとってどうするんだろう。僕は物騒にもリストカットを想像してしまったんだけど、でも、そんな手首を眺めているだけでも、顔を近づけるだけでも、なんかがありそうな気がする。手首を見るときってほぼ、下を向いている気がする。そんなときにそういう手首を見ることができるのは、望ましいかもしれない。

新しい背を抱きしめればかんたんに新しくなるわたしの腕は/嶋田さくらこ「冬の花」

「新しい」が二回使われているのが、用法の若干のずれを持って迎えられる。最初のは、単純に、初めての人(あるいは、動物)ってことの新しさだと思う。その「背」にははじめての抱擁があり、腕でしっかり触れるのも初めてなんだと思う。

対して二回目の「新しい」は、自分の腕の「そのひとへの最適化」みたいな感じだから、自分の中での感覚だけ。それは背の表面の新しさがコピーされて主体の腕にペーストされるような感じもあって、でもそういう染まり方ってあるのかもしれないなって気がして、好ましい。言い差しているあたりも、この腕に関して自分自身でも断言していない印象がある。

そんな泣き顔見たことのない母さんのクマの滂沱のスタンプが来ぬ/辻聡之「切り餅と白夜」

クマのスタンプって、いっぱいあって、それってもう「デフォルメ」でしかないんだけど、そのデフォルメをリアルの文脈で言うんですか?やばくない?みたいな感じ。泣いてるポーズのスタンプって、大げさなのがふつうというか、それが送られてきたからといって、その先の母が同じように泣いてるって、思います?みたいな。

とはいえ、そういうスタンプを使わないだろうなって印象のひともいて、主体にとって母はそういうものかもしれない。そうだと思って歌を読み直したとき、これってほんとに心が動く瞬間だな、って感じた。僕の中の当たり前の感覚ではなかったんだけど、共感できるレベルに落とし込んでくれた。

ねむそうにぐずる今年はまたぐときどんな寝顔をしているだろう/山階基「沈着」

ねむそうにぐずる子がいて、たぶん電話先なんかで聞いている気がする。その子を、いつもまたげる習慣があるのである。「今年は」で、その習慣が未来に向かって伸びている。伸びているのが、でも、寝顔なんだよな、起きてはいないんだよな、という、過去も未来も見通せる気分になる。

この歌の「いま」、その子がかわいいな~の歌じゃないんだけど、過去も未来もかわいいな~の気持ちが溢れそうになるのを見通せてる「いま」の気持ちになるとあたたかくなってきて、そういう感じがあってこれを書いてる今も持続している気がして、果てしなくうれしい。この果てしなさを墓場まで持っていけそうな気がする。


そんな感じで、よいなあと思える歌が多かった。うれしかったです。ありがとうございました。

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