なんたる星 2018年5月号
なんたる星が好きだ。
短歌って、あることないことを形にするものだなーって常々僕の中では結論づいていて、なんたる星の方々の作品はどれもこれも、そのあることとないことのバランスが好みでいつも心を掴まれている。
大喜利的とか発想力とかそういう言葉で説明しちゃうのも(すこし残念なことに)しっくりきてしまうのだけれど、なんだろう。そういうのは全てバックボーンで、彼らの短歌にあらわれているのは、それらから生まれる隙間だとか余裕だとか、ちょっとここは言葉にしにくいけれど、そういうものたちなのではないかと思う。
語る「ネタ」で勝負しているようで、その実語っていない空白で刺しに来ているような。それって短歌としてはすごくオーソドックスで好きだ。好きなのだ。
好きすぎて今回、作品を送りつけてしまった(すみません)。のせてもらった(ほんとすみません)。スコヲプさんの掌編とのコラボになった(ここですべてのすみませんがありがとうございますに全角変換された)。
毎号そりゃきっちり読んでるんだけども読んで終わりのサイレント読者だったもので、しかしながら自分の作品をのせてもらったとなるといつも以上に気合いを入れて読んでしまった。するとやはり言葉がむくむく湧き上がってきて、一ヶ月くらいはがまんしていたのだけれど、いよいよ無理になってきたので鑑賞記を書く。
(未読の方も既読の方も http://p.booklog.jp/book/122113 から本編をどうぞ)
えーそれって一緒に来いってことですか(笑)空がだんだん藍色になる/迂回『( 』
迂回さんいきなり横書きかよと思った。パーレンのかたっぽだけがタイトルの連作だ。引用歌は冒頭歌。どっちで読もうかなと考えた。じわじわたのしいのか、いやいやつきあってるのか。
僕はたのしいのが好きなので前者のイメージに惹かれたけれど、つまりは(笑)という表現の多義性というか、笑う背景のいろいろがあってそのアンビバレントなかんじに唸る。
この歌はそれで読みの多重性を狙っている印象はなかったけれど、連作全体として、パーレンのなかに感情を入れ込んで、地の文的なところで記述をしている雰囲気があった。そして、語られない感情にはパーレンが閉じられない。かたっぽのパーレンが含みをひらかせる。まあ閉じられてるものも結構ざっくりで、
飛び降りて終わったみたい(泣)(驚)(違)(笑)(爆)
音をどうとればいいのだろう。しょうがないので普段577を読む時間をかけて感情をなぞる。
ややしっくりくる。へえー。 短歌だなって感じる。どう読めばいいかわかんないから探り探り読むのがちょうどよいリズムのように。
迂回さんは結構テーマをはっきりさせて連作を提示されるかたではと思っていて、ちょっと機械的な文体なのかなあと感じている。はっきり!みたいな。
ほんものの羽はすみれの色だけどそれ以外でもゆるしてあげて/加賀田優子『五月へ』
具体的な生物がちょうちょなのか鳥なのかわかんなかったのだけど、びびっとなってしまった。
通説と真実がずれているのだ。だから通説は叩けてしまって、それってすごくまともなことなんだけど、この歌は真実に寄りすぎない。優しい。そしてなんとなく想像がつく。このなんとなく想像がついてしまうわからなさというのはとてもなんたる星らしいなと思う。
加賀田さんの歌はとてもやさしいなあと感じる。ひらがなのひらきがやさしさの権化となって襲いかかってくる気がする。あんまり描写を決めつきすぎないし、ものごとを言いすぎない。そういうことなんすよね?っていつも言ってしまう。
その中で、オッケーサインは出してる気がする。ふわっと、いいよって言われてる気がする。それがやさしい。これはもう僕が好きすぎて困りに困り倒している加賀田さんの歌があって、
銀色の折り紙でかみひこうき いいね いっぱつ勝負だもんね
というものなんだけれどもこの歌を語るのがとても難しくていつも恥ずかしくなる。なんなら今回載せていただいた拙作から(自分で)引いてしまうと、
エロ本で折ったひこうきだよだってここにくるには非常階段/御殿山みなみ『なんたるところ』
というのがあって、これは加賀田さんへの返歌では断じてない。ないに決まっておろう。おこがましいわ。けど、2月号のこの歌に参っているときにスコヲプさんとお会いして、作品提出という概念がむくむくと湧き起こっていたのでこれは必然の作歌だったと言えよう。
カウンター席の丸椅子軋ませてここも定住できない場所か/スコヲプ『くろがねのね』
今回のスコヲプさんの作品はハードボイルドだと思った。鉄の音、ということで無機質と音がテーマのようだ。
引用歌、カウンター席の丸椅子はとても不安定。背もたれもないし、ほんとに仮の場所って感じがする。
連作の一首一首はいつものスコヲプさんの作品に比べてもわかりやすいような印象で、ともすればなんたる星基準としてはつきすぎてるくらいなのだけど、それらが織りなすストーリーはやはり、なんとなく想像がつく程度のもの。そこに広がりがある。
流れ者っぽさ、孤独的な感じ、てざわりは曖昧で読者に色々と放り投げられている感じはある。けど確かなものは断片と文体。かっこいいな、って思った。
スウィンギン・イン・ザ・トレイン 独白を声に出しても許される夜
ほら、かっこいい。
ってなわけで銭湯にやってきました 家に財布を置いてきたかも/はだし『それはともかく』
はだしさんの歌はずるい。はだしワールドが出来上がっているのだもの。
あまり難しい言葉は使わない。けどニッチな生活名詞は使う。そこを詠んでくるかということが、歌の背景を想像させる。めっちゃ歌がひろがってゆく。
引用歌なんてそのデフォルメみたいなもので出だしが「ってなわけで」ときた。どんなわけだよ。はいもう想像しちゃう。はだしワールドに取り込まれる。なんでかって、想像して読者は読者なりの答えを得てしまうから。全く意味がわからないことがない。
心の位置加減というのも絶妙で、財布を忘れてきた「かも」というのが。その「かも」はすぐに確かめられる「かも」で、「かも」のまま歌に残っている心は銭湯にきたことという事実に取り残されているようだ。なんだよー。この主体が好きになってしまう。
それぞれの卓球感がみえてきてからの30分がよかった
どんなシチュエーションだよ、からはじまる以下同文。わからないでもない。そして30分という絶妙な時間に位置付けられる心だ。
アイコス、何が言いたい。もしかしておまえ音を奏でたいのか/ナイス害『夜に育つ』
メンバーの中でいちばん歌がわからないのがナイス害さんで、だからこそナイス害さんは実感から詠まれているのではないかなと思うことがある。
なにか実感があって、それをナイス害さんなりのレトリックで共有できるように持って行ってるような感じ、を、歌集『フラッシュバックに勝つる』からは覚えていて、いろんな作風を見せながらもそれが通底しているような。その実現の手段に大喜利などがあるような。気がしている。
引用歌、不思議だ。アイコスってちょっと音がするから、奏でることはできそう。でもモノを言うことはない。それが倒置されているのはおかしさを誘っているようで、あのアイコスのしゅーしゅー感(という表現でよいのかしら)があって、何かを言いたそうだと思い、もしや言いたいのではなく奏でたいのかと思うことは、自然な流れでもある気がする。
そのへんが引っかかりを作って、読者に残る歌なんじゃないかなあと感じた。僕の心に結構残った。
地に足がついていないと思ったら駆け出していて、て、て、その手があなた
57577の韻律にあてはめるなら「て、て、」のところだけが余っているんだけどすごくいい余り方だなあと思う。ちょっとまっていま結句用意するから、みたいな。優勝発表の前の長めのドラムロールみたいな。
その時間は圧縮されたものというよりはほんとうに視線が動くのに必要な(迷いながらオチを定めるような)ものな感じだ。とてもいい歌だ。エモいって言えばよいのかな。
皆様の作品からはこんな感じで、続いて僕の連作にスコヲプさんが掌編をつけてくださった競作が載っている。絶妙なクロス具合なので是非読んでほしい。あんまり語ると恥ずかしくなるからここはこれくらい。ありがとうございました。
今号の巻末企画はナイス害さんの『フラ勝つ』のメンバー批評会ということで読み応えがあった。僕もこれは何度も読み返していて、満島せしん・小池佑といった仲良し組で座談会を公開したりするくらいハマった。
そういうことで他の方、とくに星メンバーの方々の感想を知れたのは純粋によかったなーという気持ちが強い。みんなよんでね。
たぶん予定の倍くらい書いてしまった。ひえー。僕もインターネットを中心に短歌をしているので、そのいいとこよくないとことうまく付き合っていきたいなと常々思うのだけど、その偉大な先人としてなんたる星には憧れている。
そんな皆様と結果的に競作できる形になったのは光栄というほかなくて、足を向けて寝られないなと思いつつ結構皆様全国に点在されているようでたぶん誰かには向けてしまっているのだろう。すいません。
ともあれ結びの言葉としては、楽しかったです。本当にありがとうございました。別な形でご縁があれば、もっと嬉しいです。
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