自選五十首評⑨ 窪田悠希さん
いただいた五十首をもとにその人の歌の分析をさせていただく企画の第九回ということになる。前回でいただいていたものが終わったのでその旨を記したところ、また依頼があった。第十一回まではあるのでお楽しみに。
今回取り上げるのは、窪田悠希さん。なんとTwitterをされておらず、このnoteを中心に短歌の活動を行っている方だ。noteでの交流は僕もあるけれど、どうしてもTwitterのようなやりとりはできないから、今回こうしてできたことをうれしく思う。ありがとうございます。
ちなみに、
https://note.mu/ykbt/n/nae5229f340f9?magazine_key=m90f0804ed29a
こちらが窪田さんの五十首になる。同じnoteなのでリンクを貼らせていただいた。
さて、早速やっていこう。
昔よく会ってた人の居る夢に借りっぱなしの本カビくさい
窪田さんの歌で特徴的だなと思ったことに、過去の描き方がある。短歌には時制があって、全く過去を向いていない歌は少ないと思うんだけど、とりあえず過去の切り取り方。
たぶん借りっぱなしの本も夢に出ているんだろう。それは、昔よく会ってた人から借りたものではないような気がする。しかし、それらは過去を構成するものとしてつながって、カビくささは昔よく会ってた人にまで関わる。
注目すべきは「夢に居る」という書き方だ。とりあえず、過去を写真のようにとらえている。そのうえで、嗅覚がはりついているような把握。
ほんとうは一〇分前に着いていた夏がトトンと肩を叩いた
フム、といった感慨がもたらされる。夏を遅れて感じるなにかがあったのだ。それに気づいたのが今なんだけど、十分前にその出来事は到来していた。けれど二十分前はその夏も到来していなかったらしい。夏の気配の現れる過去の瞬間を、うまく切り取っていると思う。
なんというか、思い出の層が写真の重なりみたいなのだ。動画として把握しているというより、静止画の積み重ねで把握しているような。
君がふと喩えたときの言い方がずっと残って僕の目にある
とか思っていたら、この歌でそういう意思の表明がされてるんじゃないか、なんて感じた。喩えのユニークさが残る、というのはよくわかる。喩えのうまいツッコミ芸人はそれをキラーフレーズにしているわけだし。その喩えの、主体の残り方が「目にある」というのだ。脳というより、目。これは写真的な目だと思う。窪田さんの把握のとっかかりとして、写真のようなやりかたを覚えるのはこういうところにある。
真夜中の釣り人たちよ回想の背景としてときどき動け
まさにそんな感じの歌を引いてきた。これ好きだ。真夜中の釣り人という、たしかに誰から気にされているんだ、、、?みたいな環境の人を想起する。写真的にだ。すごく地味な写真。誰かの写真の背景にいそうなもの。
そこを救って、ときどきは動けと言っている。この動き方って、かなりGIFアニメっぽい。こういう一時的なフィルターを通しているがゆえに、レトリックとして歌が面白くなる傾向にあるんじゃないのかな、という気がした。自選五十首にはいい歌ももちろん多いし、このフィルターがあるゆえの手癖みたいなものも、ちょっと垣間見えた。
てんぷらへ塩をふる手と初雪へ思い出のあるふりをしている
そういう把握ができるわけだから、観察眼が絶対鋭いはずなんだよな、この鋭さというのは写真的な鋭さとして、写真的によく見ているんだよな、という文脈で使っているんだけど、とにかく鋭い。
てんぷらへと塩をふるときの、塩のかかりかたはたしかに雪を連想させるし、ひょっとするとその場ではそういう話題になっているのかもしれない。そこを、「手と」で一回受けているのが、主体はとりあえず手を見ているぞと言う意思表示があって、初雪の思い出の話がそこで生じているのかいないのかはおいといて、そこには外形上乗っていませんよという姿勢が見えるわけだ。
降りる人より乗る人の多い駅からやってきた 東京にきた
これは時間帯にもよるけれど、「行く」歌だから。行くときに乗る人のほうが多いところはベッドタウンか田舎だ。出発点と、到着点だけが写真的に示される。出発点をこう書けば、到着点がその逆、乗る人より降りる人のほうが多いところであることは想像がつく。だから固有名詞として東京が入る。
なにしにいくのとか、どこからきたのとか、そういうことはわからない。てんぷらの歌も、その場の話題性まではわからなくて、けれど一番言いたいところは抑えられているな、という書き方をしている歌を好きになっていた。書かないところは書かないでいいような、こと。
友達とその恋人が目の前で慣れた手つきで分け合っている
これもまさにそうだと思う。何を分け合ってるんだよ。パスタかな。というのはよくて、ただ観察として、主体と友達とその恋人がいて、おそらく飲食店で、メニューを頼んでその二人が(恋人同士だからあたりまえかもしれないけど)「主体をおいといて」分ける、ことの、「その二人に対する皮肉」というよりは「自分ってここにいていいんだっけな」と思うようななにか。
それが描きたい歌だろうから、分け合っているものが「何」であるよりも分け合い方が自分の「目の前」で「慣れた手つき」であることが重要なのだ。
ピザを麺みたいに切って笑いあう四人の靴がみんなド派手だ
もちろん、あますことなく観察して描き切った歌もある。ピザを麺みたいに切る、手元。笑いあう、顔周辺。靴。全身くまなく見ている。もううわーってなっちゃって、しょうがないから靴のほうをみるんだけど、こっちも逃げ場がないかのようなド派手さでまいっちゃう。
歌の言いたいことに合わせて、最初に感想として思った写真的な把握から、フォーカスするものを選んだり、選ばなかったりされているのかな、と感じた。
なぜか逆方向の電車ばかり来る クーポンでおにぎりを五個買う
そしてそれだけでは説明のつかない、強い飛躍の歌も目立った。逆方向の電車ばかり来るのはたしかに謎なんだけど、「だから」クーポンでおにぎりを五個買うわけではないだろう。ただ、主体としては逆方向でない電車が来てほしいし、行きたいところがある。という、「行き先」のファクタでおにぎりがつながってくる。
これも窪田さんの写真的な~みたいに、すべてをうまくまとめようとは思わない。こういう歌の傾向もあるんだな、という指摘にとどめるけれど、笹井宏之のようなイマジネーションの衝突の飛躍と言うよりは、どちらかというと実感の根っこを共通したうえでの飛躍なんじゃないのかな、という気はした。あくまで作者の中では、なにかしらの解答があるような。
いま好きになりそうな人が二人いる 水族館がビルの中にある
これも、水族館がビルの中にあることの意外性だとか構造的違和感が、上句の主体の心情とかさなっているんではないだろうかと感じた。好きになりそうなひとの二重性、建物の二重性。こういったところを読んでいくと、言語化はしきれないものの、解答はきっとあるんだろう、とは思う。
早足になるってことは行くとこがあるってことさ ふりむいてしまう
飛躍、と、言うことを取捨選択している絶妙な立ち位置の歌かなと言う気がしている。自分は早足にならずに、ふりむいてしまっているんだろう。でも、そこで見ているものもあるんだろうな。
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