自選五十首評④ 志稲祐子さん

好評、になるのでしょう、第八回までは開催が決定しているコーナーの第四回になる。こればっかりは短歌をいただいてから一か月以上お待たせしてしまうことになる。お付き合いいただいているのに申し訳ないのと、送ってくださってありがとうございますというのと、それでもマイペースにやっていくので許してね、というのと、いろいろな思いのなかでやってます。

今回の歌人は志稲祐子さん。かつて未来短歌会にも在籍し、図書館にまつわる短詩同人誌『Library』を主宰されたり、短歌ユニット『糖花(こんふぇいと)』に参加されていたりと結社以外の活動でもよくお見掛けする方だ。ご協力くださり、ありがとうございます。この場をお借りしてお礼申し上げます。

基本的には文語旧かなづかい、ただ心情発露に口語ベースの表現もよく取り入れておられる文体で、二回前に書かせていただいた濱松哲朗さんに近いものを感じたりもする。

そして、いただいた五十首から「歌人」評に迫ってみようという個人企画なのではあるけれど、それよりも一首一首のレトリックのうまさだったり味わいに感じ入るところがあったので、どちらかというと歌評に近いような感じに今回はなってしまうかもしれない。

メモを手に書架の林へ 待つ人を迎へにゆくときの頬をして
クレームのありてひときは鮮やかな向日葵色の館長の声

まず二首。どちらも職業詠(図書館司書と推察される)に類する歌にて、作者に近い主体が描かれているわけだけれども、どちらも巧い。前者、結句を普通なら「顔」にしてしまいそうなところを、「頬」とフォーカスすることによって、頬だからこそわかるゆるみが伝わる。逆に言えばそれ以外は真顔でいるような、そんな控えめさもあってそこも描ける。後者、「鮮やか」に「向日葵色」と重ねるとつきすぎのようにも感じるが、修飾先が「声」ということで、とくにその場に発生する声の中のそういう声、という集中につながっている。黄色い声援というように、声を黄色のイメージで飾ることはイメージがしやすい。

短歌を詠む上での基本のキなのかもしれないが、身体感覚と紐づいた心の機微を拾い上げるという観点からいくと、お手本のような技術だと感じる。それはつまり、あったことを日記調に描きたいというよりは、短歌として描写をしたいという姿勢を感じさせるものでもある。

石椅子に残るぬくみに会はむとも触れ得ぬひとの襞を思へり

そういう姿勢は、「短歌になる」ひとネタ(言い方は悪いがネタはネタだと思う)を手に入れたときに、それだけで終わらせない心構えにもつながると思う。椅子のぬくもりから、そこにいた誰かを思うことは非常に短歌になる情景である。それをそのまま出しはせずに、思うものをそのひとの「襞」としている。そう、そんなぬくもりで思うことというのは、そのひとの「存在」だけでなく、「そこに座っていたこと・理由」もあるはずだ。そこまで洞察がある。

坂道に音が光をつれてくる今のは五月の自転車だつた

「音が光をつれてくる」の逆転が面白い。速さを考えたら光があって音がある。この逆転は、主体の知覚の順番を示しているわけで、見ていない→見た、の流れがはっきりわかる。その正体が「五月の自転車」で、そこに引っかかってくる「音」と「光」を思えば心に豊かなイメージが広がる。だからこそこれは歌になったのであろう。

このあたりの詠み方も、身体感覚をベースにレトリカルに、「私の話」から「周囲の話」に対象は変わるけれど、紡がれているものだといえよう。さらに、そういう技術をもっと自分の実感に落とし込むことも短歌では可能だし、志稲さんの歌にもそれはある。

ひとりでは耐へられなかつた喧噪の谷をひとりとひとりで歩く
乾ききる風からからとわたくしの喉に枯れ葉の吹き溜まりあり

前者、一人で歩いているわけではないから耐えられそうなんだけれどやっぱり厳しい実感を、「ひとりとひとり」というレトリックで過不足なく表せていると思う。書き方そのもののほうが本質だとは感じるけれど、歌そのものがリフレインめくのもいい。後者、実感を比喩で表現した歌。こちらも音の使い方が上手だと思う。k音やt音の、乾いた感じを多用しつつ、「吹き溜まり」の「ふ」で一瞬だけ空気を通すような音運びだ。

引用してきた歌からは、孤独を覚える主体だったり、あまりなれ合わないような主体だったり、感情の波風をあまりたてないようにする主体だったり、そういうものは覚える。けれど、これが歌人・志稲祐子の人間性だ!という印象はなくて、もっとこの人は、そういう自分自身から得た実感を、短歌の文脈に落とし込もうとしている感じが強い。少なくとも、そういった歌を自選として送ってこられているのだから。

葱の香が油の熱に放たれて話すなら今だ泣きさうなんだ
サワークリームオニオン味のを手に取つて戻す おほかた判つてしまつて

そうはいってももう少し踏み込みたいので、歌の傾向として強めかな、と感じたものを二つほど挙げて、結びにしたいと思う。

まずは食べ物から心情に飛躍させるつくりの詠み方。短歌の世界に非常にひろくみられるやり方だし、僕もやるし、これが特徴的ですと言い切りたいわけではないのだけれど。それでも志稲さんの歌は、飛躍のキーとしての食べ物を、どう五感で知覚したのかということが読解にことさら大事であるような気がする。葱と炒め物の香りと熱感とか。サワークリームオニオン味の袋の質感とか。

夜の底に桜紅葉はふりやまぬ ためらひのなき身投げのやうに
わたしにも花はひとしく降つてゐた雨傘を閉ぢたときわかつた

それと、雨や花が主語にはなってくるのだけれど、降り注ぐものに対しての意識というものも強いなとは感じた。これも、すごく短歌になるものではあるし、志稲さん特有かというとそうではないのだろうけれど。

ただ、どこか、「身投げのやうに」とか「降つてゐた」のようにセンチメンタルかつネガティブな心情を詠みあげながら、降り注ぐ花や雨に対しては好意的なものをもっているんじゃないか、という印象は五十首全体を通しても覚えたことではあった。あくまで花・雨になぞらえて語られる「私」そのほかのものが、ネガティブなんだというかのような。

くれよんにさくらのいろのないことがたぶん最初の絶望でした

その感情は、この歌があるからとくに読み取ったのかもしれない。さくらのいろが、「くれよん」にないことが「絶望」なのだから。幼少期を振り返っての感慨と思われるこの歌は、最初の実感の落とし込みだったのかもしれないし、志稲さんの歌作の基礎になっているものかもしれないな、と感じた。

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