2023評bot (6)
評botの公開評をここでまとめています。どうぞよろしくお願いいたします。
一度の記事で最大4評とし、特に溜まっていなかった場合は1評でも記事にすることといたします。
趣旨はこちらのツイートをご参照ください。
それでは始めます。なお、ご利用者様の筆名は敬称略表示とさせていただきます。ご了承ください。
後出しのレトリックがうまく効いている歌だなと思いました。このレトリックは、歌が非常に作為めいてしまうのですが、個人的には好きです。
散文に直せば、彼女がミルクティーを入れるときに使った小さな鍋を思い出す、となりますが、まず「思い出す」から始めて、だんだんその正体を明らかにさせていくことで、記憶の中の「鍋」がフォーカスされます。
ミルクティーを鍋で淹れるというのは、すごく丁寧な印象がありますので、そこも増幅して感じ取ることができる、そんな歌ではないでしょうか。
普通にいい歌なので、評自体はここで終わってしまうのですが、この歌で用いられている「後出しの順番」について考えてみようと思います。
①ミルクティーを淹れるとき
②彼女が
③使った小さな鍋
の①②③となりますが、どんどん細かいところを後出ししていく手法を徹底するなら、②①③となるかなとは思います。「ミルクティーを淹れるとき」が先にくると、その後の「誰が」は、確定はしないまでもある程度有限のパターンに絞れることになります。
ただ、②①とするよりも①②のこの歌の並びの方が、散文と比べて倒置をしている感がありますので、後出し感を強めているともとれ、どちらもありだろうなとは思いました。
さらに言えば、
①彼女が淹れる
②ミルクティーに
③使われた小さな鍋
みたいな並びにすると、倒置もガンガン効いてどんどん細かくなる「理屈」にはなるな、と思いました。すみません、自分が歌を書くときの手癖です。
レトリックをどの辺まで加減するかというのも歌作には大事だと考えておりまして、個人的にはこの歌は結構適切なラインに納まっているんじゃないのかなとは思いました。
あ、二句「ミルクティーを」は、字足らず感はあります。そこも個人的には許容範囲だろうとは感じました。
ご利用ありがとうございました。
これは面白い歌だと思います。
「恋人が輪郭線になった」というと、現実にそうなることはほぼないと思いますので、心象の話として読みます。「輪郭線になる」ということは、顔かたちがなくなってしまうということで、その人を忘れつつあるときのレトリックのようです。
ただ、どこまでいっても「恋人」ですから、夢の中の不思議な出来事、みたいな感じで受けとりました。どうしよう! みたいな。
なんでもアリな表現のように見えて、なんとなく、主体の中でこういう状況になってしまうことが、それだけ「恋人」のことを考えている証左なのではないかと思え、よくわからない中でもそういうことが主体の中で発生してしまうことはわかる、感じでしょうか。
下句「耳のあたりを書き足している」というのも、まず「耳」は輪郭線に含まれないんだ、というちょっとした面白さがありつつ、この状況にパニックになっていない主体を思います。余裕があって、遊び心で「輪郭線の恋人」と向き合っている感じ。ここで覚えるポジティブさが、私の上句の読解とうまくマッチしていて、極端な話、主体の頭の中だけの出来事なのかもしれませんが、こういう心の動き方をしているのを提示してくるのは面白いなと思います。
というように、この歌が「現実のなにかの喩である」ということを考えないで読むと楽しめますが、これが「なにかの実景を詩的に表現した歌」である場合は、その実景にたどり着くことはできないです。ちょくちょくそういう歌にも出会いますので、いちおう書きました。
私は好きですが、好みの分かれそうな歌だなとは思います。でもこの軽やかさは、大事にしてほしいなあと思っています。
ご利用ありがとうございました。
これはさすがに、
を想起させられるのですが、まあ、犬は短歌になりますよね・・・
この歌と引用歌に共通するレトリックは、犬が出てくるというところを覗いて二つあると思っていまして、
・「名前を明かすこと」について、短歌的に最小限の音数で行うのではなく、たっぷり時間を取ることで、その犬がそういう名前であるということの意識付けをする。
・上記でしっかり意識付かせた犬の名前が、本来持っている意味をぶつける。
です。岡本さんの歌は、「むく」というフレーズをたっぷり「むくの姿」として上句で表現した後、「無垢」につなげる詩的落差が強烈です。あえて漢字にすることの賛否はあるかもしれませんが、「無垢」と「鯨の目」の取り合わせの広大さは間違いなく絶妙です。
翻ってこの歌は、「ハッピー」という犬の名前をしっかり意識付けながら、その「ハッピー」という犬の横で「泣く」という、およそハッピーらしからぬ行為を持ち込むことで詩的落差を狙っているように読みました。これ自体は、一定成功していると思います。
一方で、「夢の犬」というのはどうでしょう。
(現実にいるけど)夢の犬
(現実にいて、死んじゃった)夢の犬
(まじで架空の)夢の犬
と読み筋が三つあるように思います。それぞれで読ませ方が異なると思いまして、ただ、ここを一首で確定させるのは難しいかなあとも感じています。
そういう意味では、連作向きの一首なのかもしれませんね。どうしても、一首から取り出せる分量でやりきることの難しさを覚える一首ではありました。
なお、「夢」という言葉を検討することで、読み筋を絞ること自体はできるかなと思いましたが、「夢」でいきたい気持ちはわかります。
ご利用ありがとうございました。
「わたし」がカギカッコとなっているので、そのままの意味の私ではなく、比喩として、用は靴に押し込まれる「わたし」を指しているのだなと読めました。自分を型にはめるという観点で、なんらかのペルソナを演じる自分をあらわすというのは結構斬新じゃないかなと思います。
下句、その「わたし」は、どうも靴箱に残ってしまうようです。押し込んだら、引っ張り出して自由になるのかと思いきや、使い捨ての「わたし」のようにも思えます。ただ、それも理解できて、本当の自分と仮の自分を行ったり来たりというよりは、仮の自分が疲弊してしまってそのまま捨てられる、みたいな詩的把握のほうが、日々をこなすにあたって本質的ではないかという気にもさえなります。
上記のように読んでいくと、私はこの歌をすごく楽しく読んだのですが、いかんせん、作者の意図通りなのかに自信がありません。「わたし」を押し込むのはどこなのか、靴だと読みましたがそうは書いてありません。また、「帰り」の時点も明確ではありません。これから家に帰る下足箱の話をしているのか、家に帰ったときの話をしているのか。私は後者で読みましたけれども。
初句・二句とともに助詞抜きとなっているのも気になります。私は短歌における助詞抜きには寛容で、自分がそのようにしゃべるなら抜けばいいじゃんと思っているのですが、ここまで抜かれると、口語を57577に会わせるために無理したな、と感じてしまいます。
そのたどたどしさもあり、もうちょっと伝えたいことを整理して歌にはめなおす、という作業があってもいいんじゃないのかなとは感じました。
ご利用ありがとうございました。
今回は以上です。いつものように宣伝だけさせてください。
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