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「えいしょ」同人について

四月一日はエイプリルフールだけど、僕にとっては新年度の始まりの意味合いのほうが強いから、自己紹介をしようかな、と思う。

といっても、今までも何回か自己紹介をやってきたし、同じことをしても仕方がない。なので、今年所属している「えいしょ」同人について書こうと思う。

なんせ、「えいしょ」のメンバーは、自分たちのことをあまり語ろうとしない。その理由は、僕には察しがついているんだけど、この文章を読んだ人が、それに納得してくれたらいいなと感じている。

僕も、「えいしょ」のことを語るのはこれが最初で最後な気がしている。この文章の目的は、「えいしょ」を説明して、し終わることだといっても過言ではない。少なくとも、今の僕には。

話があちこち転がりそうだから初めに結論だけ書いておくと、僕にとって「えいしょ」は理想の同人だ。

「えいしょ」は2020年の1月に存在を公表した。だからまだ3ヶ月ほどの歴史しかないように見えて、実はもっと前から存在していた。Discordという、インターネットサービスのクローズドな場所に。

「えいしょ」の人選には、なんの恣意性もなかった。まず、人がいた。「かりん」ののつちえこさんが主催しているDiscordでの歌会に出入りしている数十人のうち数人が、なんとなく短歌の話をする部屋をDiscordに作った。

部屋の名前は、「2100」。21時くらいから部屋を開くかな、という意味だ。この部屋の名前は、今でも「2100」だし、おおむね21時頃から今も開かれる。

その部屋には、誰がどんな順番で入ってきたかは覚えていない。けれど早い段階で、そこには8人が集まり、そしてそれ以上増えなかった。五十音順に並べれば、有村桔梗、岩田怜武、御殿山みなみ、坂中茱萸、堂那灼風、中本速、のつちえこ、平出奔の8人だった。

「えいしょ」には最初、名前がなかった。なんせ、8人が夜な夜な短歌の話をするだけの場所だったからだ。ただ、短歌の話はどこかで、おもしろいことやろうか、の話になって、それが実行されていく。

「えいしょ」内の歌会があった。歌集の読書会があった。「いちごつみ」があった。「いちごつまない」があった。短歌研究新人賞落選作の見せあいっこがあった。真剣な連作を見せて、自分の推敲に役立てる場があった。

そしてこれらの場は、全て今もある。

「えいしょ」の8人は、総じて向いている方向が違う。おそらく「えいしょ」の8人は、お互いを仲間だと思ってはいるだろう。けれどおそらく「えいしょ」の8人は、お互いを同志だと思っていないだろう。

「えいしょ」に連携はある。非常に多くある。しかし「えいしょ」に連帯はない。「えいしょ」に内輪ノリはある。非常に多くある。しかし「えいしょ」になれ合いはない。参ったことに、ない。

それは8人の歌の作風のバラバラさも関わっている気がする。今から8人の歌風についての個人的な所感をざっくり述べるけれど、それができることに驚いてほしい。なんせ、こんなのはラベリングで、歌人に対する暴力でしかないのだけど。でも、この8人の差分を示すくらいなら、できてしまう気がするのだ。

有村桔梗さんは、「よいとき」をものすごく見つめる人だと思う。歌の数々に、よさがある。そのよさは、観察するものの「よいとき」なんだと思う。「よい」は、ネガティブな気持ちも含んでいるけれど。そしてその「よいとき」は、おおむね桔梗さんらしい主体から、繰り出されている。

岩田怜武さんは、いちばん「もの」を見ている人だと思う。メンバーの中でもっとも俳句に造詣が深いことが影響しているかもしれない。彼の歌で「もの」が提示されたとき、そこにはそれだけで感情が含まれている、ように思う。その感情は、おおむね岩田さんらしい主体から、繰り出されている。

坂中茱萸さんは、飛躍を眺めている人だと思う。世界と主体の心情の間には常にすき間があるけれど、その飛び越え方、あるいは飛び越えることでのつなげ方に興味が強いような歌が並ぶ。それは二物衝撃などの手法を駆使されて展開されていくけれど、その根幹には、茱萸さんらしい主体がいる。

堂那灼風さんは、逆に主体が語らなくてもいいでしょう、という気持ちを歌から感じる。灼風さんの歌は、ときに個人の主体が想定されず、叙事として展開される。もちろん個人の主体が見える歌もある。が、どこか広いものに思いを馳せている印象がある。語る、創る、拓く描写のさまざまがある。

中本速さんは、「わかる」ことの重みを重視している気がする。「わかる」はとても難しい。普通は、わかられない。そこに挑んでいる気がする。そして、短歌が短歌であることに対する思いも強い。「かんたん短歌」に近い文体、必ず軸に定型を置く姿勢、速さんの理論と実践は、常に一貫している。

のつちえこさんは、自分の言葉で話すことを重視している気がする。のつさんにとって言語は表現の根幹であって、まず自分が心地いいリズム、言葉、心を表現し、それが他者にとってどうか、という作歌信条がある。実際、のつさんの「いい歌」の基準は、その人の言葉で表現してそうかどうか、がある。

平出奔さんは、短歌を心だと思っているような気がする。いま、心が動いた、それを、動いている状態をそのまま言葉に再現するような手法で、心を体験として共有するような。平出さんの歌にはほとんど平出さんのような主体がいて、それはなぜなら、歌に平出さんの心が投入されているからだと思う。

僕は、短歌の「圧縮」に興味があるんだと思う。限られた文字数からどこまでのものを引き出せるか、そしてそれが自分の意図通り「解凍」されるかどうか。同時に僕は、自分の話をしたい人なんだと思う。だから、圧縮があって、意味の押し込みがあって、だとしても、僕のような主体から語られる。

こんな8人だから、匿名で歌会をやっても、だいたい作者はわかってしまう。しかもお互いが違う方向を向いているから、そんなに褒め合いにはならない。いい意味で、絶対自分が一番いいと思っている。それでいい。僕だって、「えいしょ」にいる間、自分が一番いいと思い続ける。

けれど、「えいしょ」の8人は、お互いを否定しない。互いの作風を、自分とは違うと認めたうえで、フラットに話す。そういう意味では、歌の読み方の姿勢は共通しているかもしれない。そしてそれくらいが、8人の共通点としてあげられることだと思う。

そしてそれは本当に信頼できることだ。だからこそ、お互いの未発表作を見せ合うことに、ためらいがない。

「えいしょ」には長らく名前がなかったとは書いた。でも、名前がないころから、「えいしょ」が同人であるという意識はあった。それは、8人で「なにかおもしろいことをやろう」という気持ちがあるからだ。

僕は、同人というのは同人誌を出す集団ではないと思っている。もちろん、同人誌を出してもいい。「えいしょ」も、出そうかという話が、なくもない。ただ、それだけが目的の集団ではないはずだ。

同人の目的は、同人を利用して、自分の短歌を良くしていくことだと思う。ついでに、同人の短歌を良くしていく手助けをすることだとも思う。

同人は、徹底的に同人自身のためにあればいいと思う。同人の中だけでアウトプットを出しているだけで、その存在意義は果たされていると思う。

「えいしょ」は、今年は存在するとしている。これは、今年が終わったら解散するという意味ではない。今年は、対外的な「面白いと思うこと」をやっていこう、という意味合いだ。来年になったら、引きこもるかもしれない、ということに過ぎない。

「えいしょ」は、自分たちがおもしろいと思うことをやっていく。バラバラな8人で。喧嘩っ早い8人で。いつ喧嘩別れするかわからないが、意外とうまくやっている。たぶん、別れるも何も、元からバラバラなんだと思う。

けれど僕は、「えいしょ」に自分にとっての理想の同人を見ている。だから今は、しっかりとここに所属している意識で、短歌をやっている。

そんな「えいしょ」が、面白いかなと考えて、とある企画を展開しています。企画名は「詠所」。未発表の短歌を一首投稿してもらったら、メンバーの誰かが評を書くという趣旨だ。

ここまでバラバラな8人だから、送ったら誰かには刺さるんじゃないかと思う。たぶん、刺さった人が書くと思う。よかったら、参加してみてください。我々も楽しみながらやれます。「えいしょ」はnoteのアカウントを持っているから、探してみてください。なんとなく、ここには貼りません。

そういえば、「えいしょ」の由来を紹介し忘れていた。けれど、今更なので、やめておく。少なくとも、「詠所」ではないことは確かだ。もっとくだらない理由。でも、どこかで「詠所」が由来です、と言っていたとしても怒らないでくださいね。

そんなこんなで、今年度も御殿山みなみを、「えいしょ」をどうぞよろしくお願いいたします。楽しくやっていきましょう。

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