2023評bot (5)
評botの公開評をここでまとめています。どうぞよろしくお願いいたします。
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趣旨はこちらのツイートをご参照ください。
それでは始めます。なお、ご利用者様の筆名は敬称略表示とさせていただきます。ご了承ください。
「幸せに暮らしましたの一文で救われたかった」と言われて、すごく理解できた、と、思ったんですが、ほんとうに自分は理解できているのか? と立ち止まりなおしました。「幸せに暮らしました」というと、昔話の「救いのあるオチ」だと思いますので、「救い」があることは確かなのですが、こう書くことが果たして見かけの納得度以上に効いているのかどうかを考えておきたいです。
まず、「幸せに暮らしました」というのは、主体の発話ではなく、神の視点のような語り部の発話を想起します。そういう意味では、こう語り部に一文で結ばれることで、主体は「救われる」と言えましょう。
一方で、どこまでいっても「幸せに暮らしました」という「事実」は、この語り部ではなく、主体自身がつかみ取り、実現するものです。ですので、語り部がどう結ぼうが、言い換えれば「語り部の救いの有無」を問わず、この主体は理屈上は「幸せに暮らす」ことができます。
この歌は、おそらく幸せに暮らせなかった頃を詠んでいると思いますが、だからこそ、自分ではどうしようもできなかった過去に救いがほしいと願うことはよくわかります。その上で、「幸せに暮らしましたの一文」という、主体の事実ありきの救済方法を当てるというのは、これはレトリックとしてどうでしょう。私は、見かけの納得度以上のものがないような気がしています。
ただ、この歌は、現在ではなく過去を詠っていますので、回想的にこういう書きぶりになると思えば、十分理解はできました。その上で、気になることは、「幸せに暮らしました」という一文が本質的にフォーカスする時点とは、物語の終わりの時点ではなく、その後の幸せな暮らしの期間であるということです。
つまり、この歌の言う「救われたかった」は、書きぶりからは「ワンルーム時代」のことを指しているように読めつつ、レトリックのイメージに引きずられ、「ワンルーム時代を経ての今までの間」を言っているようにも読めます。
文体からは作者の意図は前者のように読めつつ、使ったレトリックは後者のように読めてしまうところがあり、ここの整合性はあったほうがよいように感じました。
ご利用ありがとうございました。
私自身も自分の歌でよくやるのですが、「あえてのポジティブ」とでもいえそうなレトリックがいまの口語短歌のメジャーどころとしてあるように思います。この歌もそうで、「世界じゅうに友だちがいる気になってくる」というのは、実際そんなことはないにもかかわらず、仮想の全能感を主体が呼び起こすことで、読み手としても「こういうことでこんなポジティブになっていいんだよな」と心が動く働きがあると思います。
さて、この歌は、そのポジティブな発想に至る行為が「生肉をどんどん食べる」というわけですが、正直、よくわかりません。このあたりの理屈は読み手がどうとらえるか次第なところはあると思いますが、私の感じ方は以下の通りです。
生肉を食べるという行為は、なんとなく、大自然的で、食物連鎖を思わせる感じがある。食物連鎖を思うと、すごく大きな生き物たちの相関図が浮かび上がってくる。そうすると、同じ生肉を食べる自分以外の他人も浮かんできて、つながっていけば世界中に広がるような気がする。そこに、連帯を見てもいいような気がしてくる。
以上の理解から、私はけっこうこの歌の飛躍は効いているんじゃないのかなと感じはしたのですが、好意的に読みすぎているような気もします。「生肉を食べる」というのは残酷さのイメージを併せ持つ表現ですので、そこを重く見てしまうと、おそらく下句の感慨にはつながってこないようにも思えます。
そこは、「どんどん」という言い回しを挿入することで、下句のポジティブにつなげる滑走路としているようにも感じますが・・・いかんせん、私がこういう歌を好きなので、どうしても「これでいいんだ」という気にはなってしまいます。私ではない読み手のほうが、もう少しこの歌に批評的なことを言っていけそうな気がします。すみません。
ご利用ありがとうございました。
歌意としては、ふざけて言う「死にそう」ではあるけれど、いずれ来る「死」に対する予防、防衛行為なんだ、ということでしょうか。
「プールで水に慣れる」という行為が、ここから海に出てもいいように、という含みを感じますので、ある意味、死なないようにの準備運動ともいえます。この歌には書かれていないものの想起できる「海的なもの」から、「死」が見えますので、この把握自体は成功しているように思います。
「僕ら」なのはなぜでしょう。「僕」だけならわかります。個人の感慨として取っていけます。また、ある程度特定できる「僕ら」だとしても、似たようなものかなとは思いますが、やっぱり「僕ら」は広いです。「死にそうとふざけて口にする人」の、全員を拾っているように読めます。
「僕ら」というレトリックは、かなり危ういものて、つまりは自分じゃない人のことも言い切りに行く、悪く言えば決めつけに行くことになります。よっぽどの納得度がないと、しらけてしまうことにもなります。その上で、こういう言い切りが好きな方も多く見えますので、ダメとまでは思いませんが。
冒頭で、この歌の把握は成功していると書きましたが、厳密に見ていけばズレもあると思います。一般的に、死にそうとふざけて言うことは、能動的ですが、子供がプールで水慣れをすることは、受動的です。子供ではなく、親や教師が望んで行わせることだと思います。
このズレは、むしろ歌にいい効果を及ぼしていると思っていまして、というのも死にそうとふざけて言うことは、自分の意思で言っているようで、むしろ大いなる死に言わされているのだ、という感慨としても受け取れるからです。
ただ、こういう根源的な不安を形にする短歌の主語が「僕ら」なのは、本当にそれでよかったですかとは申し上げます。「僕ら」にしても、皮肉、風刺の範囲で収まるレベルだとは思いますが、いたずらに「僕ら」に発散させずとも、主体一人の感慨として抱えて吐露する選択肢も、あるのです。
ご利用ありがとうございました。
信号をちゃんと見て渡る分には問題ないですが、うつむいて見えていないにもかかわらず、横断歩道に映る色の変化で、信号本体は見もせずに渡る、という行為を取り上げた上で、その危うさを孕んだ生き方が、人生全体へと発散していくつくりと読みました。この発散はとても巧みで、普通に生きていては思いもしない不安めいたものを抽象レベルで捉えたいい歌だと思います。
表現としては、「自然と」が効いているなと思います。「信号が変わったな、歩き出そう」という思考の流れがあるわけではなく、反射的に体が動く感じを出せていて、その上で結句「明日へも」についても、「自明の理」とでもいえる意味合いをもった「自然と」としてつながっていく感じがあり、ダブルミーニングというと大げさですが、微妙に接続方法を変えた橋渡しができているのではないでしょうか。
その上で、「横断歩道に映る信号の色」というシチュエーションが、ちょっと説明不足かなという気はしました。
例えば水たまりがあれば映るでしょうし、夜の暗いときでも映るかもしれません。とはいえ、そもそも映りようがないときもあることから、こう書かれたときの、この歌をイメージする上で重要な「When」がぶれてしまっていると思います。ここは、もう少し踏みこんで描写したほうが、読者をぐっと歌の視点に釘付けにできるところではないでしょうか。
また、韻律もちょっと気になる部分はあります。
・おうだんほどうに
・うつるしんごうの
・いろかわって
・しぜんとわたって
・いく あしたへも
の、88687の韻律として読みました。初句二句をたっぷり使うことは全く問題ないと感じつつ、三句が助詞抜けと字余り、ここがもたついていると思います。私は初読ではこの歌をリズムよく読むことができなかったです。
下句も句割れがありますし、ここは三句五音でバシッと決めていただいた方が、読みやすさも高まるかなとは感じました。
ご利用ありがとうございました。
今回は以上です。いつものように宣伝だけさせてください。
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