2023評bot (4)
評botの公開評をここでまとめています。どうぞよろしくお願いいたします。
一度の記事で最大4評とし、特に溜まっていなかった場合は1評でも記事にすることといたします。
趣旨はこちらのツイートをご参照ください。
それでは始めます。なお、ご利用者様の筆名は敬称略表示とさせていただきます。ご了承ください。
私は関東に住んだことがなく、検索しました。なるほど。どちらの建物も、ただの直方体ではなく、独特な形状をしています。
「ビルを引っこ抜く」という発想は、たとえばお笑い芸人のバカリズムがやっていた「都道府県を持つ」とか、この前のM-1グランプリで男性ブランコが披露した「でっかい音符を運ぶ」とか、そういうお笑いのネタチックなものを覚えます。そこが面白いことはわかるのですが、ひとしきりその面白さに慣れた後、残るのは「そうですか……」という気持ちだけ、というのはあるでしょう。
この歌で面白いと思ったのは、「引き抜きやすさ」の要素です。最初私は、周りにビルがそんなにないところに高いビルが建っていれば引き抜きやすいのでは、と思っていました。実際ビルって「そう考えれば」なんでも引き抜きやすいと思いますし……。
ところが、西新宿なんて、ちょっと検索しただけでもビルの山です。むしろ全部引き抜きにくそうです。ただその中で、この二つの建物は、たしかに細長い中でも曲線があって、角ばっていない感じが、「指にやさしい」かもしれません。そう考えたら、面白かったです。ウケました。
何と言いますか、そういうビルの要素をもって「引き抜きやすい」と思うこともそうなんですが、「そういう心の人」が、「さらに考える何か」というところまで提示したほうが、いい歌になるようには思いました。
「損保ジャパンとモード学園のビルは引っこ抜きやすそうだな」からの、何か。そこでどういう心の動き、イメージが閃いているのか。あるいは逆で、先行する把握があってからの、「引っこ抜きやすそうだな」とか。短歌の面白さは、そういうところにあるように思います。
なお、「淀橋」の代わりに「西新宿」として、初句七音とする案もあったとのことですが、韻律的に初句七音は当然ありだと私は考えています。むしろ、私のような西の人間は、「西新宿」のほうが、わかります。
ご利用ありがとうございました。
うーん、なんといいますか……リアリティラインの見極めがこれでいいのかと言いたくなるような一首です。下句の「ラーメン二郎持ち込んでみる」というフレーズは面白いですし、笑えるのですが、まあどんな上句に入れてもある程度は面白くなっちゃうとは思います。
「美少年だけがいられる庭園」が、なんなのかというのが結構大きいと思っています。素直な直感では、こんな「庭園」はないんじゃないかと思うんです。空想・想像の世界にはいくらでもありますけれど、現実にはないでしょというか。
その上で、ジャニーズじゃないにせよ、いわゆる美少年的な方だけがいられる場所というものを全く想起できないわけでもなく、比喩としての「美少年だけがいられる庭園」というのはもちろん成り立つわけです。
そういうところに、「ラーメン二郎」を持ち込むというのはぶち壊しですし、そうするカタルシスもわかります。ただ「持ち込んでみる」というのは、「美少年だけがいられる庭園」が、「ある」からできることです。読み手としては、「じゃあそれはなんなの?」という疑問が先行し、ラーメン二郎がどうというのにいまいち乗り切れません。
もちろん、空想の庭園に空想の二郎を持ち込む、という歌でもいいと思います。作者の考えたことだけ、という提示の短歌も、あってよいです。しかしながら、そういう短歌は、やっぱり残るものが少ない。「変なことを言われたな」で通り過ぎられる要素があると思います。
もし、空想尽くしで攻めるのだとしたら、「空想のラーメン二郎を」と書きだすなどして、最初から空想の話をするぞと宣言してしまうのもありかなとは思いました。ラーメン二郎は現実に存在しますので、「空想の」とつけることによる面白さもあるかとは思います。
ご利用ありがとうございました。
前半と後半で、視点のズームの手法と、不思議さの演出に、相似形を感じ、そこを好ましく思いました。
「花は葉に」とは、一本の木として桜が葉桜になるようなイメージを前提にすればすんなり読めますが、ミクロに読めばちょっと不思議です。花は涸れたら葉になるわけではないと思います。ただ、どこかスケールダウンする印象はあります。
おなじく、「葉はうろくずに」というのも、「うろくず」が主に鱗を指す語彙であることを踏まえれば、不思議なつながりですが、だんだん小さく塵になってゆくようなイメージにおいては、鑑賞を邪魔しないかなと思います。
他方、「オールトの雲」は、調べましたが、太陽系の周りを「理論上は」取り巻いていると仮説されている無数の天体群とのことです。想像を絶するマクロの空間に、ミクロ(に思える)天体がひしめいていて、さらにそのミクロとミクロの間に「彗星」が生まれる。彗星ですから、よく動くでしょう。視点はどんどんズームする中で、不思議な営為を印象付けるものだと思います。
二つが対比されている中で、「葉に葉は」「間に間に」という音韻上の相似を交えながら、片方が完全な実景で片方は空想と言い切れないのも面白いところです。もちろん、前半のほうが実景よりですし、後半の方が空想よりではありますが、どちらも「ありそうでわからない」の動きをしており、フラクタル構造的に世界を把握しているような印象を受けました。
読んでいけば、いいなと思える歌でしたが、いかんせん私の語彙にない言葉選びが多く、読解にあたって結構調べたことは白状しておきます。
そういった語彙の選択は、けっして責められるものではありませんし、むしろ読む側に教養があるべきところだろうとも考えておりますが、そういう言葉選びをされているのだ、というところには自覚的であったほうがいいかな、とは個人的に思いました。
ご利用ありがとうございました。
エゴン・シーレと検索すれば、インパクトのある人物画にたくさん触れることができます。当然、100年以上前の故人ですから、そのままの意味での「会いました」ではないでしょう。美術館などで、シーレの作品に会ったということか、夢や空想で会ったということか、大別すればどちらかだと思います。一首でそのどちらとして読んでも構わない、というスタンスを作者がとることは何ら問題ないとは思いつつ、この歌は、そこをある程度固めて読まないと、何が言いたいのかが掴みにくいと感じます。
シーレの絵に会ったと読めば、「描いてもらった身体でそのまま来た」というのがなんなのかということになりますが、「もらった」という書きぶりからも、これは主体の行為なのだろうと読みます。鑑賞によって、自分の身体も「シーレに描いてもらったらこうなるのか」というイメージが浮かび、それが貼り付いたまま余韻のように移動した、という情景が浮かびました。そして、私はこの読み方がもっとも心動かされます。とはいえ、この意図であれば、わざわざ「会いました」でなくてもいいように思います。
空想でシーレに会ったと読めば、その空想のシーレが主体を描くことだってありえるわけですから、そういう姿でやってきました、そんな景の立ち上げとしても読めると思います。
ただ、空想を前提として「そのまま来ました」と言われても、どこから、どこに来たのかがまったく掴めません。これは具体的な場所という意味ではなくて、誰の/なんの近くなのか、遠くなのかという、移動に伴い発生する接近/離隔という抽象レベルの鑑賞もむずかしい、という意味です。
少し厳しい書き方になってしまいましたが、歌の韻律は個人的に好ましいものがあります。音数的には、三句から四句にかけての句跨りのある定型ですが、ずるずるとした印象があり、それでも短歌として立てている感じがします。
そういう意味では、ここから推敲することはハードルがありますが、この歌を通じて何を伝えたかったのか、というところをご自身で一度深堀りされてみてはいかがでしょうか。絵画的になった人物というイメージは十分詩的です。そのモチーフがシーレであればなおさらです。まだまだ活かせると考えます。
ご利用ありがとうございました。
今回は以上です。いつものように宣伝だけさせてください。
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