自選五十首評13 坂中茱萸さん

いただいた五十首をもとにその人の歌人評までやってみるという企画の第十三回目となる。けっこう日が開いてしまったけれど、2月に書きますという話であったため、さぼってたわけではないよ。

今回取り上げるのは、坂中茱萸さん。ぐみさんだ。今年から僕は同人「えいしょ」に所属しているけれど、同じく「えいしょ」のメンバーである。けっこう作品を読み合ったりはしているし、簡単な評の交換はちょこちょこやっているけど、こうやってがっつり書くのは初めてかもしれない。

いただいた五十首の中には第2回笹井宏之賞の応募歌もあり、その絡みでこの記事は賞の発表後に書かれているのである。ちなみに茱萸さんも僕も予選を通過した。わーい。茱萸さんは染野太朗氏の〇ももらっていた。いいなあ。

さてさて五十首読んだのだけれど、なかなかに飛躍が強く、独特な世界観の歌が多いのであった。ただ、そういう歌作りにばかり目を向けていてもなんだかなあって気がするので、丁寧に追っていこうかなと思う。

大阪の家賃高いね 土佐堀のひかりでヤフー天気は霞む

最初に引っ張ってきたのは、すごく地に足がついた歌だ。地というのは、土地勘としての地。土佐堀とは大阪市のビジネス街。地方からやってきたのだろうか。大阪の家賃は高い。周りを見ればビルだらけ。ヤフー天気という固有名詞にある「天気」が「霞む」のがおもしろく、その原因が「ひかり」なのもおもしろい。

茱萸さんの短歌は、このように字あけで明確でなくとも、二つに分かれることが多い。その二つで何をするのか、といえば様々だけれど、基本的には主体としての自分の心情がうたわれているように読める。この歌は、まずわかりやすい心情が示されて、それを反映した見え方の景で、その心情を増幅させているようだ。

夏。五月山公園に行きたいと思う わたしは祈りをもたない

書き出しのような文体から口語に流れていくこの歌も、地名に紐づいた感情がある。五月山公園とは大阪府池田市の公園だ。桜も紅葉も有名だが、夏となると何だろう。動物園かな。ともあれ「なにもない」場所ではない。

上句で示されるのは「願望」で、これはあるんだけど、「祈り」はないという。祈りを「もつ」という表現は、祈りを思い切り名詞にしていて自己の行為から切り離しているかのようだ。僕は、願望と祈りの差があるときに願望を取る人は積極的だと思う。そういう前向きさを感じる歌。いいね。

これも二分法があって、茱萸さんの歌はリアルな景であってもそれが自分の中の世界に反映されていくから、独特な見え方になっていく。

葉を舌に含めて歌を殺すときわたしを通過する大嵐

自分に反映とはまさにそうで、この歌のように自身の身体感覚にものごとを落とし込んでいく歌も特徴的だと思う。上句は、現象としてわかる。その身体感覚から生まれるのが「わたしを通過する大嵐」で、これは無責任に「わかる」とは言えない表現だ。

ただ、相対的に感じてみれば、大嵐なるものは、きっと歌を殺さなければ通過しないのである。歌を殺すとは、なにか押さえつけるイメージがある。なにがどう、とかを理解しているわけではないけれど、ほんとうは我慢したらよくないものを抑圧しているときの、がたがたした印象を読み取ることができる。読み手として、身体感覚の腑に落ちる。

はまぐりのスープへ何度も心臓を差し出したくなるような平日

これも、日常的な景に身体感覚を挿入している。心臓を差し出したくなるとは大仰な表現だ。自分を売り渡すような。全面的に預けられるような。その先が「はまぐりのスープ」だし、時期は「平日」だ。

言われてみればはまぐりのスープはちょっと特別かもしれない。そうはいっても大げさだ。その、日常に対する大げさ度は、世界に対して自分をねじ込んでいるかのようでもある。茱萸さんの歌は、主体と世界の境界線がなくて、一体的に認知してるのかな、と思えるような歌が多いし、この歌のような挿入も、効果の方向性としては似たようなものを感じるのだ。

水を切りハムを挟んで整える 鳴らしてもいい鈴があります

うーんいい歌だし、これもどこか身体感覚との紐づきをおぼえてしまう。上句の、丁寧な暮らしとも呼べそうな、さっぱりと楽しげな時間。ここから飛躍して、「鳴らしてもいい鈴」とはなんだろう。どうも現実の鈴である気がしない。「わたしの中の鈴」であるような気がしてくる。それは、上句のすがすがしさから導かれるので、自然にうれしくなれる表現だ。

鳴らしてもいい鈴を書くと、鳴らしてはいけない鈴もあらわれる。その「いい/わるい」の根拠をどこにとるのかがわからない以上、「ありとあらゆる鳴らしてはいけない理由のない鈴」を思い浮かべるからこその、万能感。なんとなく大いなる世界を感じる。それに接続されているような身体も覚える。

水星がよく見える海の町に来てかつてあなたを殴った町だ

上述してきたような茱萸さんの歌を鑑賞していると、いわゆる「リアル読み」ができそうな歌でも、どこか不思議な印象をおぼえる。下句の思い出し方が心地よい。「あなたを殴った」ことを、「あなた」に語り掛けているのである。心理的な関係性は切れていないだろう。で、今は「水星がよく見える海の町」なのである。すごく俯瞰してみることができている。

水星という表現があるからというのもあるだろうけれど、茱萸さんの見方/感じ方が歌の世界に溶け込んで、世界が異化されたような印象がある。それは、景/心象というふたつを歌に織り交ぜて融和させるような作り方だからこそ、相互作用によってどちらもがまざりあった存在に見えてしまうかのように。

もうずっと絵を描いていないという人にあげるわたしのかわいい埃

めちゃくちゃ好きで、これも「リアル読み」をしようと思ったら、できはする。ただ、「かわいい埃」を実際にあげるとは思いづらいので、となると「もうずっと絵を描いていないという人」もそもそも実在するのか、となってくる。この、実景なのか心象なのか、そのラインをやったときに、ほんとうに微妙なところで歌を楽しめるように構築されているのが、茱萸さんの歌の世界観なんじゃないかな、と思ったりする。

ここまでは、ちょっとでもリアルな、地に足のついている要素の見受けられる歌をじわじわと引いてきたが、もちろん心象風景全開なのでは、という歌も見受けられる。

順番に目を閉じていくコンピューター真夜中にある春夏秋冬

わからんでもない上句だ。ただ、やっぱりイメージの世界のものなんじゃないだろうか。そういうコンピュータが大量にあって、シャットダウンなのか、順番に目を閉じていく。眠りにつくかのように。それと、真夜中の春夏秋冬なるものがぶつけられている。

真夜中にだって四季はあるだろうけれど、言われてみれば実感することがあまりない。真夜中ならではって意味で、だ。この二つの概念がなんで並んでるんだ?と戸惑うのは戸惑うんだけど、どちらもなんか、めぐっている感じがある。さらに、目を閉じていく→真夜中、という自然な流れもある。どこか、隠された循環システムのようなものを思い、その時僕は、個人的に、世界にアクセスしてしまったような錯覚に陥って、それがよかった。

武器のないあなぐま なんてうつくしいのだろう雨の降り積もる夏

降り積もるのは普通雪だ。夏に降り積もるものはない。でも雨がそうだという。こう書かれると、すごく雨が遅く感じる。それを「うつくしい」と主体が指示するもんだから、美しいものとしてみる。

あなぐま、から感じるイメージは、巣穴にこもるような動物。それに武器がない。攻めてこられたらおわりのような感慨がある。その状態で「雨の降り積もる夏」を歌の提示通りに鑑賞すると、たしかに「うつくしい」んじゃないか?となってくる。作者の心象世界に共感できるのは、茱萸さんが世界に自分の身体感覚をねじこめるだけじゃなくて、自分に世界を取り込めるからだとも思う。

もちろん、ピンとこない歌も多いんだけれど、そりゃ人それぞれだから仕方ない。でも、いただいた五十首を読んで一貫して思ったのは、そういう自分の外部/内部の境界線の融和というものなのであった。

春、犬が駆け出すように生まれゆく島のドーナッツ、島のあなた

いちばん好きだった歌。意味はわからない。イメージの連関はあって、すごくすきなんだけど、なんだろう。ちょっとここまで、言葉にしすぎた気がするので、この歌における僕の大好きな僕の感じ方は、僕の中だけにしまわせてもらおうかな、と思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?