「はるかカーテンコールまで」デジタル栞文-第6回-

「遠泳」同人の笠木拓の第一歌集刊行記念note、今回の担当は坂井ユリです。


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  そんなに遠くない昔、私はしばしば予期しない死について考えていた。最近はよく寿命について思う。寿命について考えることと、死について考えることは少し違う。寿命を前にすると、死はその営為の慎ましさを感じさせるからだろうか。

心臓が早鐘のように鳴るというその早鐘の齢をおもう/「フェイクファー」

「齢(よわい)」は年齢を指すというよりは、寿命のことを指しているように思える。心臓の小さい生きものほどその鼓動は速く、寿命も短いといった知識があるからだろう。また「早鐘」は変事を知らせるときの鐘や、不安や緊張による胸の高鳴りを示すというが、私はそういう不穏さを感じない。「という」「おもう」などの表現がやわらかく、静かだ。この歌は、何かによってさだめられている命の長さに、あるいは短さに思いを馳せている歌だと思う。少なからず慈しみを持って。
 
  この歌から受け取れる思慮深さのようなものを、私は日々笠木さんから感じていた気がする。会えば他愛のない話ばかりして、冗談ばかり(言いもしたし、)言われていたけれど、その冗談のなかで、言葉にはしない心がたゆたっていた。私の自分に対する評価、その卑屈さを何度かたしなめられることもあった。笠木さんは私よりも、私について思慮深い人なのだと思った。

 手は花は手は手からこぼれておはなしのようにしかもう思い出せない/「雨音をやがて失う」

 笠木さんが京都を離れてしばらく経つ。年に一度か二度は会っているけれど、もしかしたら会えなくなる日々が来るかもしれない。それでもいい、とは私は思えないけれど、もしそうなってしまったら「おはなしのように」でもいいから思い出してほしい。この「手」のように。

『はるかカーテンコールまで』刊行おめでとうございます。


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