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本の記憶。『魔の山』を読み終わる。

2年半前の話。2017年の11月の初めから2018年5月にかけて、読みつづけていたトーマス・マンの『魔の山』を読み終わった。読了に半年かかってしまった。昭和44年発売の新潮文庫(定価 上・240円、下・260円)である。 新刊本で、51年前に買った本だ。思えば、この小説もわたしにとっては複雑な因縁の作品だった。まず、一冊の本を読むのに半年もかかるのかヨ、と思うかも知れないが、こちらはほかに、原稿執筆のための直截的な資料本や、企画立案の情報収集のために読もうと思ったり、あるいはプログを書くために目を通したりする本が膨大な量、何冊も読まなければならない本としてあるなかで、純粋にそういうことに関係のない読書として、電車に乗っているときとか移動途中の合間の喫茶店とかで、読み継いでやっとこれを読み終わったのである。

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それで、この本、文庫本なのだが、上下巻で、上巻が本文582頁、下巻が660頁ある。合計で1240頁あまり、しかも、版面の組を計算すると、一頁43字×19行、つまり817字あり、専門的なことになるが、多分9級くらいの字の大きさで組まれている。

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9級というのは雑誌の写真につけるキャプションの字のサイズである。それでもって、昨今はやりの読みやすさのための行替えなんか全くない。   ↑ ご覧の通りである。
年を取っているせいか、老眼鏡も必要でとにかく読みにくかった。また、長くて、400字原稿用紙で換算すると2532枚あることになる。オレが書いた作品にも4000枚くらいのものがあるが、人の書いたものでこの長さのモノを読むのは久しぶりだった。
この作品を書いたのはドイツ人でトーマス・マンという作家である。

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沈黙図書館にこの人の文庫本作品はほかにふたつあり、『トニオ・クレーゲル』(角川文庫)は94頁、『ヴェニスに死す』(岩波文庫)は124頁しかない。小説の長短はその作品の価値に直接関係があるわけではないが、やはり、100頁くらいだったら簡単に読めるし、実際、後出の二作品は若いころ読んで、内容もほとんど忘れてしまっている。『魔の山』だけが、買ってから50年間、積ん読状態だったのである。50年前に買った本なのだ。
最初にこの本は因縁のあると書いた。どういうことかというと、昭和44年のわたしは早稻田大学の文学部の四年生だったのだが、8月に就職試験を受けて、平凡出版(現・マガジンハウス)への就職が決まり、そのあと、学校は無期限バリケードストライキの最中で、いつまで経っても授業がはじまらず、家に閉じこもって本ばかり読んでいたのである。どんな本を読んだか、はっきり覚えていないが、分厚い文庫本ばかりだったような気がする。フォークナーの『サンクチュアリ』とかヘンリー・ミラーの『セクサス』、三島由紀夫の『鏡子の家』、ジェームス・ジョイスの『ユリシーズ』などで、この『魔の山』は読もうと思って、本屋で買って帰ってきたところで、就職内定先の平凡出版から電話がかかってきて、当時、総務部の課長だった岡本さんから編集のアルバイトしに来てくれないかと頼まれた。それに「はい」と返事したところから、わたしは疾風怒濤の雑誌編集者生活に突入し、家に閉じこもって『魔の山』を読むどころの話ではなくなっていったのだった。
あらためて、50年ぶりに、この本を読んでみようと思ったのは、やはり70歳になって、前の年(2017年)の11月受けた健康診断で「ガンかもしれないから再検査しましょう」といわれたことと関係があるのだろうということだった。医者にいろいろ言われて、逆に精神的になんとなく肝が据わって「そういえばこの本、読み終えていない。死ぬ前に読まないといけないな」と思って、遅ればせに『魔の山』を読み始めたのである。そんなわけで、『魔の山』、読み通すのにかなりのエネルギーがいったけれども、作品自体は面白かった。これだけの枚数あるから、単純にビルドウングス(人間の成長物語)だとか、教養小説だといってかたづけるわけにもいかない。     高地の結核療養所で結核患者の登場人物が雄弁に生と死を語りながらバタバタ死んでいく話だから、気色も悪く、文字通り、魔の山のタイトルがぴったりの物語なのだが、わたしの感想では、この作品は思想小説である。西欧ヨーロッパの思想の二大潮流、キリスト教の正統であるカソリック的なモノ=神学と、カソリック的でないもの古代ギリシアからはじまる観念論&唯物論=哲学を二人の人間に語らせ、それを育ち盛りの青年が教育的に教えられる、そこの部分の場面設定が、わたしには一番面白かった。
神学も哲学の一部、という人もいるかも知れないが、わたしはそうは思えない。神は存在する、しかも、どう存在しているかが最大の問題である。これも哲学的な思弁といえばいえるが、哲学が神の領域の采配である宿命とか運命という言葉をどう受け入れるのか、わたしはまだ、哲学書のなかでその答を読み切れていない。
読み終わって、わたしが思い出したのは横光利一の『旅愁』だった。あの本は神学対哲学の対決ではないが、東洋対西洋の文化の相克を読みものにした思想小説だった。

アメーバでやっているブログ(【沈黙図書館】という名前で)に芸能人との昔話を書いたら、それにアクセスが集まって、それをみんな熱心に読んでくれているようだった。わたしの読書の思い出話なんか全然面白くないかもしれないが、沈黙図書館は芸能人の情報ブログではないのである。たまに書くのならいいが、芸能話ばかりを連続して書くつもりはない。『魔の山』を読み終わって、今度はこの本を読もうと思っている。

中世哲学史 01 012

フランスの中世史の歴史家、アラン・ド・リベラの『中世哲学史』、じつはわたしの本当の専門は女のコの研究ではなくて、ヨーロッパの中世史なのである。この本も買ったのはいまから20年くらい前で、まだマガジンハウスに勤めていたころ、定価8000円の本だった。
買ってすぐ読もうと思っていたのだが、会社をやめて、フリーの作家になったトタンに、メチャクチャ忙しくなり、好きな読書の時間なんか取れなくなってしまい、ここまでずっと仕事がらみの本ばかり読んできた。
ずっと気にかかっていたが、積ん読状態がつづいていた。ほかにも積ん読状態の本がいっぱいある。多分、生きているあいだに読み終わらないだろう。
この本はA5版のサイズで670頁ある。中世のヨーロッパに神はどういう形で存在していたか。神をどういう存在として認識、把握しようとしていたか、そのことについて、ひと理屈こねられるようになろうと思っている。
とにかく、たとえ原稿の執筆のためにする読書であれ、読書は楽しい。
みなさんもたくさん、本を読んでください。それもできるだけ分厚い本を。
そして、ただ物知りだというのではなく、知識を体系のなかで学んで、それを将来に向かって生きていく力に変える能力を身につけた人間になってください。自分のことを棚に上げて言っているけど、わたしが現実の自分がそういう人間かどうかの自信は15パーセントくらいしかないけどね。
人生、一生が勉強です。  この話、ここで終わり。

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