見出し画像

#32 海の祈り

 海がある。とか、あれは海だ。というのは正しくなかった。この世界は海そのものなのかもしれなかったから。

 碧い水底のように淀んだ街に屈折した影が過ぎていく。音もなく、藻が揺れるように、絡みつくように、ゆったりとした歩みで。アスファルトの歪みからあぶくが立ち昇り、翠の空へとまた昇る。白い、光のような小魚たちの一群がビルの間を器用に縫いつける。ひび割れた外壁を磯巾着の優しい襞が極彩色に覆っている。くぐもった女の声が聞こえたような気がした。

 風が吹かなくなって久しい。全て連れ去られたこの街には、沈澱と滞留だけが残る。その沈黙と静謐に耐えかねて祈りの言葉がもたらされるとき、暗澹のなかから光が溢れる。風が藻たちを洗い流し、渦となって海は空へ還る。

 海の街がここにある。かつて海だったところだ。空が青いのは、海のあおさを引き受けたからだと、伝わっている。