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#50 卒論を経験して思ったこと

 きのう、卒業論文なるものを提出した。これは最近noteを更新できていなかった理由のすべてである。これでいよいよ、卒業ができるらしい。留学を挟んで、大学には五年在籍したことになる。五年。とても永く、人生においての一つのチャプターになるような、そんな重たい時間だった。

 文系のぼくは、翻訳について、主に文化研究や文学における先行研究(その分野ですでになされた研究の論文や書籍)を参照しながら、自分の考察を織り交ぜて書く、ひたすら書くという日々を送った。研究室で見る朝陽はいつも眩しかった。

 「ひたすら書く」。文章にしてみれば淡泊な作業のようにも思えるが、実際は自分を思念体にして、翻訳という多層構造の中へ滑り込ませるような、自らが内視鏡となって身体の内部を検分するような、一種の緊密な研究だったとおもう。

 完成を間近にして思ったのは、卒業論文は「終わる」ものではなく、「終える」ものだということ。誰もが卒業に対する義務と思っているそれは、実は自分とどれだけ対話し、どれだけ自分を甘やかさず、駆動してゆけるかという、「妥協との闘い」だった。

 面白かったのは、最終の校正のとき。今まではパソコンで見ていたものを、紙に刷って見直してみると、信じられない程の訂正・推敲がはじまる。実際に読者に(といっても教授の先生方に)わたる形になって初めて見えてくるものもあるのだとわかった。

 卒業論文は特殊な「書くこと」の形態だろう。その一回きりで、やり直しのきかない、半ば義務感のあるような執筆は、懊悩もあったが、価値もあった。これは、終わりではなく、一種の始まりだ。この通過儀礼を終え、社会という途轍もない大海へ漕ぎ出す同胞たちの背中に、身の引き締まる思いがしている。