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六畳間の彗星

 通り沿いの小さな部屋には自動車の駆動音が反響し、ときどきにそのヘッドライトが天井に平行移動する光を描く。それはまるで周期と軌道が決まっている彗星のようにも見えた。膨大な情報に飽和した脳の細胞が、ただその光を見つめる眼球にやさしく熱を含ませ、毎日やってくるあの停止―大いなる眠りに身体をいざなう。
 
 上京して、知らない街の知らない部屋に住み、知らない人間を満載した箱に毎日通っている。少しずつ知識と経験が増え、それらは見知ったものとなってゆくのだろうが、新参者は律儀にも、真冬の寝床のように、私たちの周囲を、自らの体温でわたしたちは融かさなければならない。その熱を発散するとき、私たちは自らの内側にあるエネルギーで発電するしかない。甲斐のある疲労だろうか。あるいはそれが徒労とならぬように祈るしかない。


 知は力だ!などという紋切型を使う奴は遍くぶん殴ってやろうと思うのだが、知識も実は致死量が決まっているような気がする。昔見たインディ・ジョーンズの映画の悪役が、インカの神々に「この世のすべての知識」を要求し、頭脳が赤熱し膨張し爆発して死んだのを思い出す。情報も知識も浴びすぎると劇毒になりそうだ。けれどわたしたちにその拒否権はない。新卒という身分は、親切心というありふれていて不可視の暴力を受ける。その見えない圧力の前では笑顔も愛想もむしろ逆効果で、肥大してゆく気疲れのなかで、どうすればよいのかわからなくなりそうだ。

 …そういえば、社会に出ること=死を迎えることだと思っていた。勿論比喩的に。自由も大きな目標もなく、考える余裕も時間も奪われるその簒奪が、明らかに暴力的な質量を持っているからだ。マナー研修を受けたときはそれがほんとうになりそうで端的に絶望したものだが、意外と今は悪くないことかもしれないと思い直してきた。

 重要なのは―これは個人的な感想だが―第一言語を忘れずにおくことだ。自分が自分である理由、行動原理、思考方式、そういったものを労働に圧倒されずに保持し続ける事(あるいは、秘匿し続ける事)こそ、蟹工船へのアンチテーゼだ。マナーを第一言語に設定した人間はおそらく空疎化する。ゆえに、常に思考し続ける強度が必要だ。つねに思考し、デスクに固定された身体から精神の長大な翼で空を掻くこと―それはきっと不格好な悪足掻きにもみえるだろう。が、そうしてつねに上昇を続けなければ、私たちの身体は労働という絶えざる質量でジリ貧になってしまう。いったん足をとられればラクに沈めそうな沼地が見える。下降への重圧の中で、心だけは自由に藻掻かせたい。


 森山直太朗「素晴らしい世界」を聴いている。そしてまた、決まりきった順番で、Bill Evans の "Like Someone in Love"が流れ出す。
 知らない街で、複製されたYouTubeの音楽が沁みる。わたしという連続性、それを担保してくれるのはいつだって複製藝術だ。複製不可能なわたしと「あなた」のために、こうして書くことに意味が生まれてくることも、また自然に祈られる。
 ただ、無意味にも上を向くことに、意味があると思う。それだけの素朴な思い付きも、こうして言葉を重ね迂路に入りバカみたいな比喩を使わないと私は書けない。だから、ここまで読んでくれてありがとう。付き合ってくれてありがとう。私は何かを交換したいと思って何かを書く節がある。なぜだろう。それを考えるには少し今日は体力が足りなそうだ。ゆえに、ここは語りを三人称にしてお茶を濁しておこう。
 そうして男は、どさりと音を立てて布団に転がり、また天井の彗星を観測しながら、明晰夢の星空と区別がつかなくなるまで、甘んじて夜を数えてゆくのであった―。

またたまに書くよ。おやすみなさい。