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 いつも、海を思い出す。朝ぼらけのまどろみの中に聞こえた低く長い船の汽笛の音や、突堤にぶつかる波濤、ゆっくりと呼吸するように隆起しては沈む蒼黒い海面が、記憶というより感覚として思い起こされる。あの音は善かった。郷愁と言えるだろうか。海風が吹き抜けるわたしの生家、自室の風景とそこにある匂いには、いつも磯の香が混じっていた。それは生命を意識させる、生々しく、それでいてさわやかな緑のような、色彩を感じさせる匂いなのだ。いま、日々を蕩尽し、目標なく惰眠をむさぼる自分が、少しだけかわいそうに思える。集中力のない人生は屑同然だと心から思うが、今の生活はそれ以外の何物でもないのだ。悲しみとも諦めともつかぬ、形容不可の深い疲れが日々を貫き、酒も眠りも、なにものをも癒さない。海が見たい、海を聴きたい、と思う。

 渋谷という駅は、すり鉢状になった螺旋の坂道の中心にある、アリジゴクみたいだね、という話を誰かとした。東京だってきっとそういう構造になっているんだ。中心を持つものは、中心に対する重力がはたらく。人々は夥しく中心に殺到し、せせこましく箱に入って移動する。渋谷駅前は波濤のごとく人々の影がうごめいていた。ここはアリジゴクの底で、その中心にいて自分は夜の空に海を確かに見た。

 大写しの馬鹿げたコマーシャルと人々の甲高い喧騒、寄り集まる影の群れ、異様な熱を孕んだ街の大気、はちきれんばかりの影を吐き出す信号機、その呼吸。

人々の海―。

 荒々しく夥しい都市の海のなかでは、記憶も思考もさして意味はない。何も見ていない人々と、何も聴こえない空洞がある。奇麗なものを幻視しながら、それでもなにものか味わおうと藻掻くことはできる。いつか溺れるその日、おれはどうなるのだろう、という問いは、いつまでも保留されている。きっといまもスクランブル交叉点の中空かどこかに浮かんでたりするんじゃないかな。しらんけど。