記憶が飛ぶ
アスガー・ファルハディ監督が『彼女が消えた浜辺』(2009年)のプロモーションで来日した際のインタビュー記事がある。
これは僕が同監督の『別離』(2011年)を観て完成度の高さに驚いて、監督がこの映画の完成に至るまでに育まれた作家性を形成するものや影響を受けた映画(作品や監督)を知りたいと思って検索した際に見つけた記事だ。
何せ映画は一生観続けても到底観きれない作品数があり、たまたま出会って惹かれた一本の映画を足掛かりに興味を広げていくのが手っ取り早い。
「心に残る映画は?」と問われたファルハディ監督はアルベール・ラモリス監督の『北風』(1978年/※公式にはフランス映画なのでフランス語版タイトル『Le vent des amoureux』に倣って、以降『恋人たちの風』と書きます)と、モフセン・マハマルバフ監督の『ギャベ』(1996年)を挙げている。前者はフランスの映画監督がイランで撮った映画、後者はイランの映画、ファルハディ監督はイランの映画監督である。イランの映画文化に目を向けてもらいたい想いも込もっているのではないかと思う。イラン映画といえばアッバス・キアロスタミ監督が世界的に最も著名な映画監督だろう。キアロスタミ監督が1990年に発表した『クローズ・アップ』という映画は、たまたまバスで隣り合わせた女性に対してマハマルバフになりすましてしまったことに端を発する映画制作詐欺事件の顛末を追いながら、加害者となった男の映画と現実の境がつかなくなった心情と社会背景をあぶり出す。
モフセン・マハマルバフは1974年、17歳で警察の武装解除を試みて逮捕、4年半の投獄を経てイラン革命が起きたことで1979年に出所した。それ以降、社会を変えるのは政治ではなく文化だと思考を転換し、映画を始め様々な芸術分野で作品を発表するようになる。
また、マハマルバフは家族総出の映画制作でも知られ、モフセン監督作品のスタッフを務めながら映画制作を学んだ妻、二人の娘、息子が映画監督デビューを果たしている。2002年には「マハマルバフ映画家族」と題する特集上映が日本で開催された。
僕はどちらの映画も知らず、たぶん『ギャベ』の予告編は動画を探して見たはずだが、本編を観たいほどの欲求は駆られなかった。
もう一本のアルベール・ラモリス監督『恋人たちの風』はyoutubeに全編がアップロードされているのを見つけて再生してみるとたちまち映像に引き込まれてそのまま最後まで一気に観た。ナレーションは日本語字幕が選択できず、何が語られているのかは全くわからない。それでも美しい映画だと思った。
2020年の大晦日、本棚を組み立てたらギックリ腰になってしまい、緊急事態宣言下に緊急事態宣言が発令されたような状態で、ますます家に籠らざるを得なくなった。
ヒマつぶしにsoundcloudに好きな曲をドロップしてプレイリストを作成したところ、著作権侵害で半分ほど弾かれた。当然といえば当然だが、これがyoutubeとなると弾かれた曲の大半が既にアップロードされて残っている。その曲たちを自分のお気に入りに登録するとプレイリストのようなものができた。
この作業をしている時にアルベール・ラモリス監督の『恋人たちの風』本編に挿入されている歌の部分だけを抜き出した動画を見つけた。この歌は初めて映画を観た時から気に入って歌の部分だけを音声ファイルにしてiTunesに入れて愛聴していたほどのお気に入りだったのだが、当時はクレジットなどを検索してもこの歌について何もわからなかった。タイトル欄に書かれている文字はペルシャ語ではないかと適当に目星をつけてペルシャ語を日本語に翻訳するサイトを探してコピペしてみると Monir Vakili という歌手の「La Laiee」という歌だとわかった。他の歌も聴いて良ければ集めたいと思って調べてみると、マニール・ヴァキリの本職はレコーディング歌手ではなくオペラ歌手、声楽家だった。縁あってイランの様々な地域の歌を集めた「Chants et Danses de Perses」というアルバムを制作したが、生前に録音したのはこの一枚のみだった。
「La Laiee」はこのアルバムに収録されているのだが映画とはヴァージョンが違う。詳細はわからないが、映画のために新しいアレンジで歌も新規録音されたのかも知れない。
Monir Vakili「La Laiee」歌詞と日本語翻訳詩
(لالائی (گرگان
لای لای لای لای گل لاله
پلنگ در کوه چه میناله
پلنگ در کوه چه میناله
برای دختر خاله
لای لای لای لای گل فندق
مادرت رفته سر صندق
لای لای لای لای گل خشخاش
بابات رفته خدا همراش
私の可愛いチューリップを眠らせてください。眠らせて。
おばさんの娘のために山で豹のうめき声が聞こえる?
叔母の娘のために山でうめき声をあげています
眠りなさい、私の可愛いハシバミの花、眠りなさい
お母さんを働かせて
眠りなさい、私の可愛いケシの花。
あなたのお父さんは行ってしまった
神のご加護がありますように
1923年生まれのマニール・ヴァキリはイランの文化芸術を世界に発信したパイオニアの一人だと評価されている。1983年2月28日、ベルギーで夫と車に同乗していた際に戦車に衝突して死亡した。
60歳で不慮の死を遂げていたのか…と感傷に浸って思い出すのは、この歌が使用された『恋人たちの風』撮影中にアルベール・ラモリスがヘリコプターの墜落事故で亡くなっていることだ。
アルベール・ラモリスは世界的に有名な34分の短編映画『赤い風船』の監督だ。改めてフィルモグラフィを見てみると『素晴らしい風船旅行』『フィフィ大空をゆく』『恋人たちの風』と空撮を多用する映画を撮っている。「空の映画詩人」と評されていたらしい。ヘリビジョンというヘリコプターに搭乗しながら滑らかな映像を撮影する技術を独自に開発して特許を取得し、その技術は映画『007 ゴールドフィンガー』で使用された。
僕自身『赤い風船』を観たというおぼろげな記憶はあるものの、どんな映画だったかまるで思い出せない。ラモリスのことを調べ始めて『赤い風船』を再見したくなった。動画はすぐに見つかった。職場で時折出入りするお客さんの対応をしつつiPhoneの小さな画面での観賞ではあったが、『恋人たちの風』と同様にファーストショットから心を鷲掴みにされて最後まで夢中になって観た。これほど完成度の高い詩情溢れる映画だったとは。
・映画『天井桟敷の人々』の脚本を手掛け、数多くのシャンソンの名曲を作詞したジャック・プレヴェールは『赤い風船』の前々作にあたる『小さなロバ、ビム』(1950年)からラモリスの映画を支持し、自筆原稿によるナレーションを担当するなど、多くの人の目に触れるよう協力した。
・映画批評誌カイエ・デュ・シネマの初代編集長でヌーヴェルヴァーグの父とも呼ばれるアンドレ・バザンは『赤い風船』を「夢のドキュメンタリー」と称して前作『白い馬』とともに映画監督アルベール・ラモリスを絶賛した。
・アカデミー賞でほとんど台詞がない『赤い風船』が脚本賞を受賞した。
・アンドレイ・タルコフスキーは『赤い風船』に触発されて『ローラーとバイオリン』を撮った。
・室生犀星は「蜜のあわれ」を自分流の『赤い風船』だと書いている。
・黒澤明は監督一人につき一作品という制限を自ら設けた映画ベスト100にアルベール・ラモリス『素晴らしい風船旅行』を挙げている。
侯孝賢が2007年に「ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン」という『赤い風船』にオマージュを捧げた映画を撮っている。それを記念して日本では『白い馬』と『赤い風船』が二本立てで上映され大盛況だったそうだ。その二本がセットになったDVDも発売され、スーベニア・ボックスという初回限定生産の2枚組DVDにはそれぞれの作品で主役を演じた子どもと少年の近況を描くドキュメンタリーが収録されている。さらにシネマカフェというサイトにはそこからの注文限定で『恋人たちの風』も収録されたボックスを発売するという記載を見つけ、このボックスが中古で出品されていないか探したのだが見つからなかった。ああ『恋人たちの風』をよりクリアな映像で字幕つきで観たい。諦めきれずにシネマカフェの会社概要を開き、試しに社長の名前をググってみると2012年に会社を譲渡したあと、堀江貴文をビジネスパートナーにステーキ店を営んでいた。
何が和牛マフィアだ、バッキャロー!
WAGYUMAFIA代表の浜田寿人(右)
問い合わせる気が失せてひとまず諦めがついたところでスーベニア・ボックスを購入した。同時に、アルベール・ラモリスの発言が少しでも掲載されていないかと映画パンフなども手に入るものは買ったのだが、ラモリスを一人の映画作家として取り上げた書籍は世界中のどこにも存在しないことが分かった。これだけの作品群を残していながら少し不思議な気がする。2008年に『白い馬』と『赤い風船』が二本立てで公開された当時の記事に権利関係の問題で上映の機会がなかったという前置きを読んだが、ラモリスの映画には未公開作品も多いし、公開された映画も『白い馬』と『赤い風船』を除けばロードショー公開された初年以降上映されていないのではないだろうか。
並行してネット上でも、特に『恋人たちの風』に関する記事を探しまくった。英文なら 「Albert Lamorisse The Lovers' Wind」、仏文なら「Albert Lamorisse Le Vent des amoureux」、ペルシャ語なら「آلبرت لاموریس باد صبا」。英文と仏文はDeepL翻訳にかけて、資料価値を感じた訳文テキストは保存する。ペルシャ語はDeepL翻訳が対応していないため、いくつかのサイトで試して、そこそこの精度だと感じられた tradukka というサイトを利用した。『恋人たちの風』以外に「インタビュー」など検索ワードを変えたりもしたが、探し尽くした感覚を得た時点でテキスト保存した記事は15で、やはりラモリスに関する情報は少ない。
目を通した文章を要約すると『恋人たちの風』制作の経緯は下記のようである。
イラン国王、モハンマド・レザー・パフラヴィーがラモリスの短編『ヴェルサイユ』(1967年)を観て気に入る。芸術文化省がラモリスにイランの古代から現代に至る壮大な文化を讃える映画の制作を依頼する。(この頃、パフラヴィーによる近代化政策の一環でアニエス・ヴァルダ、クロード・ルルーシュもイランで映画を制作している)
ラモリスはペルシャ詩やスーフィズムに関心を抱いていた。1968年に中東の文化史家、ピーター・チェルコウスキーをテヘランに訪ねた。チェルコウスキーは本棚から「四つの風の物語」という本を差し出した。その夜のうちに風を語り手として風の視点からイラン各地を空撮する映画というアイディアが固まった。
撮影は1969年までに終わった。しかし試写を観た芸術文化省は大学や原子炉開発研究所などのイラン近代化の様子があまりにも少ないことに不満を示し、特にアイダホ州ボイシのモーリン・クヌードセン社によって建設された7億6千万ドルをかけた壮大なカラジダムを追加撮影するよう要請した。
予算を芸術文化省から受け取っていて、映画を完成させたいラモリスは渋々承諾した。
しかし、カラジダムの上には高張力ワイヤーが張り巡らされていて、ヘリを飛ばすのが危険だということは空撮経験の豊富なラモリスはわかっていた。カスピ海で溺れる不吉な夢を見ていた。
1970年6月2日、アルベール・ラモリスは「地の果てまで飛ぶぞ!」と叫んでカラジダムの撮影に飛んだ。ヘリは高張力ワイヤーに引っかかり墜落。ラモリスとパイロットは死亡した。この現場には『赤い風船』で主役を演じたパスカルがいた。20歳になったパスカルはラモリスの助手として参加していた。事故が起きたあと、パスカルは車で砂漠を2時間かけてテヘランまで走り、母親に父の死を告げた。
プロジェクトは中止されたが、ラモリスの妻クロードと息子のパスカルは制作ノートをもとに映画を完成させた。
1978年1月に始まるイラン革命により国王パフラヴィーは亡命、同年に完成した『恋人たちの風』はアカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞にノミネートされた。
その翌年、モフセン・マハマルバフは出所する。
『恋人たちの風』のその後。
ヘリコプターは高張力ワイヤーに引っかかったままだった。追撮されていたフィルムは回収され、イランの芸術文化省で『恋人たちの風』の共同製作者の一人、メールダッド・アザルミが現像、6分の映像作品に編集された。この映像についての明確な記述は見当たらないが、どうやら一度本編に組み込まれた後で省かれたようだ。
映画の完成から38年を経た2016年、ファジル世界映画祭にてイランで初めて『恋人たちの風』が上映された。観客はすし詰めの満員で外にも人が溢れる盛況だったとリポートされている。
映画はイラン国立アーカイブに保存されていたため、デジタル復元された。
アーカイブマネージャーのラダン・タヘリ氏は、映画を自分の都合で地下室や倉庫、クローゼットに保管している映画製作者を批判。「残念ながらそのような映画は破壊され、忘れ去られる運命にあります」と述べ、国立フィルムアーカイブを隠れ家と捉え、安全に保管し、後世に残すために作品を預けるよう求めたという。
かくのごとくカラジダムの高張力ワイヤーに引っかかったままのヘリコプターのようにアルベール・ラモリスの映画作家としての評価は宙吊りになっている。神話のような名作『赤い風船』の圧倒的な存在によって風と化してしまったのだろうか。
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