生ぬるく生きる
「生ぬるい私」という思い込みを見つめています。今、精いっぱい頑張ってるのに、「自分は生ぬるい」という思いから抜け出せない。
ガチガチの「常識」や「当たり前」から逃げながら生きてきた。
そんなにつらい経験をせずに、今、幸せですみません、みたいなのがあるみたい。
いや、でも、本当は今、つらくてつらくて仕方がないのに、それを見ないようにしているだけかもしれない、とも思う。
つらい気持ちを隠しているか
今、がむしゃらに毎日を送っているのだけれど、それでも「自分は生ぬるい」と思うのは、いったい何だろうか。
ここ10年ほど記憶は薄いし、仕事も子育ても悩むことはある。私は悩んでないふりをしているだろうか。正直、悩んでないふりをすることもあるな。
耐えきれなくなるような悩みは、少しずつ人に相談できるようになった。それでも、日々のしんどさが当たり前になってしまってると言えば、そうかもしれない。
私はつらい気持ちを隠しているのだろうか。
正直、よくわからない。振り返ったら、めちゃくちゃしんどかった!となるような気もする。
今のしんどさ、つらさを、そのまま認められたら、「生ぬるい私」なんて言わなくなるのかもしれない。
良い意味の「生ぬるさ」
ふと、「生ぬるい私」って自虐的だな、と気づく。
苦しい「常識」、自分は受け入れることができない「当たり前」を避けるように生きてきた。それを「常識側」から見て、「常識外れ」だとか「生ぬるい」と感じている。「生ぬるい自分」を責めていたりする。
だからスピリチュアルの世界を知って、「『地球のルール』に縛られる必要はない」という言葉が、最高にありがたかったのだと思う。
本当の自分は、「常識側」に居ると、心がつぶれてしまうから逃げてきたんだ。そう思うと、よしよし、よく逃げてきた、と自分を抱きしめてあげたいようにも思う。
そう考えたら、こんな「生ぬるい私」だから、人にも「生ぬるい世界へようこそ!」「よくぞ逃げてきましたね!」と言えるのかもしれない。
あっち側、こっち側で分断したいわけではない。でも、私があまりよく知らない厳しいあちら側の世界で頑張っている人や、もう嫌だ!と思ったり、もうダメだ~と思ってる人がいるなら、こんな「生ぬるい世界」もあるよ、と伝えたい。
「生ぬるい私」をネガティブな意味で使っているときは、「常識側」に引っ張られていて、これもある意味揺り戻しと言えるのかもしれない。でも、ここはひとつ、ポジティブな意味で「生ぬるい」を使っていきたいと思う。
「生ぬるく生きる」
「常識」や「当たり前」の届かない圏外で、ご機嫌に生きるというのが、今の私の目指す軸なのかもしれない。
厳しい世界を知らないと、つらい思いをしている人に寄り添えないような気がしていた。知っている・知らないで分断していたのは自分だった。
厳しい世界を知らなくても、そうなんだね、と、誰かの言葉を受け止めることはできる。
寄り添えなくても、ただご機嫌な波動でそこに居れば、誰かが元気になる力になることができる。
最近noteで受け取った言葉たちから、そう思えるようになった。
そんな私は生ぬるく生きていこうかと思う。
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