自宅待機と写真


家にいる間、特に何も役に立つことをしていないのだが、iphoneで写真を撮ったり、撮った写真を眺めたりする時間がいつの間にか増えた。カメラロールを数えてみたら、3月中旬から今日まで5-600枚撮っており、昨年の同期間に比べて10倍以上写真を撮っていることになる。と言っても写真を撮ろう!と思って被写体を探しているのではなく、毎日の動線に撮ることや見ることがじわじわ侵食してきているような感じだ。変化のあまりない生活の中で、少しでも目を惹かれたら何でもiphoneで撮っている。

 3月以前のカメラロールを見ると、街角の光景やギャラリーの展示など、外出先で撮った写真が多い。写真を撮らない「地」の生活があり、その上に珍しかったり、綺麗な「ハレ」の瞬間を残した写真がぽつりぽつりと点在している。3月中旬以降も散歩中に撮った写真はあるものの、それ以上に今まで撮らなかったような生活の動線上の写真が多い。裏返したタッパーや洗剤の泡や椅子の上で丸まったセーターは数年後どのように見えるのだろうか。

写真を撮るのは、世界が写真の中でどう見えるのか知りたいから、というゲリー・ウィノグランドの言葉をふと思い出す。

移動が制限された今、代わりに写真を撮ることで見る景色を量産しているのだと思う。写っているのが何であれ、写真は撮影者の視界から独立して、単体で完結した視覚的空間/視覚的テクストである。珍しい何かやハレの瞬間を撮った写真を見るとき、どうしても視線が「何」(ロラン・バルトが言うところのストゥディウム?)に引き寄せられがちだ。写真を見る目は撮った時の目の追体験に近い。その一方、自宅での「珍しくない」写真を見ながら、何故か撮った時以上に面白く感じられる時が割とある。地の生活時間から際限なく切り出される四角いイメージのうち、時々出てくる好きな写真は、何度読み返しても読むたびに発見がある短詩のような味わいだ。撮った時の視覚と写真を見た時の快楽のズレは、一体その写真のどこが面白いのか考え、言葉にしようとする試みを誘う。

         従来のハレとケ、非日常と日常、外と内の境が溶解していく中で、自分は切り取ることと見ることの快楽に耽っているのだと思う。それは自慰にも似て自己完結したオブセッシブなものなのか、新しい視覚の獲得なのか、まだわからない。

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