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多様な意見で 世界を照らす

何が正しいのか、誰もわからない状況で、僕は、それぞれがそれぞれの現実に応じて考えることが、全体として大切だと感じている。

ネットニュースやSNSを見渡せば、自分と違う考えをしている人が大勢いることはわかるし、ときに、それが もどかしいと思うこともあるが、

それでも、その人がその人の現実に即して判断しているのなら、その人が、自分と違う意見、全く反対の意見の持ち主であっても、その人の立場を尊重したいと思っている。

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そう考えるひとつには、情報についての見方がある。

人がこの世界について知ることのができるのには、限りがあって、その上、常に情報や知識が正しいとも限らないのだから、
「この人は、僕が知っていることを知らない」
と思っても、それは、お互い様だと思っている。

たとえ、ある専門家がその人の専門について知識を述べても、それはその領域だけで通用することで、何が正しいか誰もわからない世界において、限られた知識であるのは、変わりはない。

次に、僕と相手だけを考えた、相対的な見方がある。

仮に、僕と相手が、共通の正しい情報、知識を得られたとしても、僕の置かれた状況と、相手の置かれた状況が異なれば、異なる判断をするかもしれないのは、当然だ。

現時点、同じ状況に置かれているように見えても、人それぞれ、それまで歩んできた人生がある。

そういう、時間軸まで含めた状況を考えれば、全く同じ状況にいる人など、まずいない。

状況が違えば、同じ情報を得ても判断は異なるだろうから、それぞれの下す判断の中に、唯一絶対の正しい答えがあるのではなく、それぞれの判断は、それぞれの好みの話だ。

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それから、集団全体を考えた見方がある。

各個人のそれぞれの立場から意見は、集団としての雰囲気を作り出す。
それは、波長の異なる光が合成されて、いろいろな色を見せるように似ている。

太陽の白色光の中には、見える光の範囲では、赤から紫までのグラデーションを持った光が含まれている。

集団の立場で見れば、個人がそれぞれの立場で持つ意見は、グラデーションを構成する一部の波長の光のように、集団の雰囲気を作っていると思う。

いろいろな色を作るには、一つの波長の光では作れない。

たとえば、もっとも基本的な色に思える白色だが、よく見る、プリズムで分解される赤から紫までのグラデーションの中には、白は含まれていない。
つまり、白色を作るには、複数の波長の光が必要だ。

色々な物が鮮やかに見えるには、一つの波長の光では足りない。
光に照らされた物体は、周波数ごとに違う吸収率によって光を反射し、またいろいろな色を見せる。

例えば、木々の葉は、赤色と青色の周波数の光を吸収し、緑色の周波数はあまり吸収しないので、緑色に見える。
もし赤と青の光が強い明るい光を照らした場合、緑色の周波数の光が含まれていないので、そのような光の元では、木々の葉は、黒っぽく見えることになる。

現実に多彩な世界を見るためには、いろいろな波長の光が必要だ。

これと同じように、この社会を鮮やか見るには、集団の中には、いろいろな意見がバランスよく含まれている方がいいと思う。

仮に、二つの意見に真っ二つに分かれてしまった場合、その中間の意見や両極端の意見が照らすべき問題は、よく見えなくなるだろう。

まして、ときに理想のように語られる「集団の意見が一つにまとまる」なんていうのは、もっての他だ、と思う。

自分の意見は、集団が世界を照らす光と、そして照らされた世界に、色を加えていると思う。
だから、少数派だろうが、劣っているように見えようが、自分の立場に正直な意見であれば、自信を持ちたいと思っている。

同じように、自分と異なる意見も、光と世界に色を加えているのだから、相手が自身の立場に正直であるなら、相手が多数派であれ、少数派であれ、その意見も尊重したいと思う。

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だから、不確定な世界の問題について、僕が意見を述べる時、相手を説得するというよりは、
「僕の立場から見れば、
  この状況、こういう風に見えているよ」
と伝えるつもりでいる。

このとき、僕が知っている情報は正しいとは限らないが、「僕にはこう見えている」ということは真実だ。

たとえ誰かに僕の意見が批判されようとも、僕がこう考えて生きている、というのは否定されえない。

逆に、相手の主張を聞くときには、相手の示す情報が正しいかどうかは別として、「相手にはこう見えている」ということは真実だ、と思って接することにしている。

たとえ、相手の主張に反発を覚えても、「相手が生きていることは真実だ」であり、その人が加えている色自体は大切なことだと、敬意を払うことにしている。

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こう考えるようになって、正しい「何か」にすがるのをやめると、誰の存在も否定せず、誰からも自分の存在を否定されえず、だいぶ楽になった気がする。

以前、ネットニュースやSNSで、自分と異なる意見に接すると、
「もう、つきあってらんない」
と思って、心の中から相手をシャットアウトしてしまっていたが、

今は、違和感や反発は覚えても、
「お互い『今の自分には救いようがないヤツ』と思っているのは、お互い様」
と、冷静に受け止めるようになった。

それは、単に「相手は相手、自分は自分」と切り離す考えではなく、
「相手も自分も、それぞれの立場で、
 世界を照らしている一員である」
という敬意と自信に基づいている気がする。

すると、自然と、心の中に相手を存在させられるだけの寛容さは培われてきた気もする。

最近のコロナ騒動では、SNSでの友人・知人の投稿に、心は相当にざわつくこともあったが、
「この歳まで生きていれば、
 考え方も人それぞれ。
 それぞれの立場で、
 みんな、必死に生きているんだよな」
と冷静に、思いやりを持って、SNSを観続けていられた。

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ところで、
「何が正しいか、誰にもわからない」
と思っているからといって、
「真実なんてない」
とは思っているわけではない。

僕らは、相対的にしか知ることができないけど、絶対的な何かがある、とは思っている。この辺のことは、またの機会に書いてみたい。

不確定な世界で、穏やかに生きていけますように○3
てつろう拝

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