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11. 最後の面会

◆ 最後の面会

 その翌日は友人の披露宴でした。もうこのときには、実家のテレビの部屋はだいぶ片付いていて、ちゃぶ台を移動したりしなくても、大人一人分の布団は敷けるほどになっていました。母の部屋の方はまだ荷物で山積みでしたが、テレビの部屋からは隣の部屋との仕切りとなっているふすままで通れるようになっていました。その日、私は安心して母にユウゾーを預けて、披露宴に参列しました。

 披露宴の翌日、私は父の病院へ最後の面会に行きました。最後の面会は、ユウゾーの他に、この日休みだったツグミと二人の姪と一緒に、ツグミの車で行きました。途中モミジ一家とも待ち合わせして、兄妹とその子達で大挙して向かいました。
 大勢の子や孫に囲まれて父は、かつてのように威勢よくなっていました。もう病室には入りきらないので、ロビーで談笑しました。
 みんなで集合写真も撮りました。真偽のほどはよくわかりませんが、このとき父が「アメリカ人の女の子の間では口をタコみたいに尖らせるポーズが流行っているんだゼ」と言い、みんなでそのポーズもしたりしました。

 私は、このとき一冊の本を父に手渡しました。
 それは、東洋医学の「気」の流れと西洋医学の「リンパ」の流れの観点で書かれた、誰でも簡単に自分でできるマッサージについての本でした。父がタイ・マッサージを受けたと聞いたのをきっかけに、私は以前読んだこの本のことを思い出して、急いでインターネットで注文して取り寄せたものでした。
 父がこれから少しでも自分の体を労わることができるようにと願い、父に渡しました。
 しかし、父は本のタイトルを見て、気乗りしないようにこう返事をしました。
「リンパが腫れているから、『リンパ』ってのは好きじゃないんだ。」
 私はこう答えました。
「『リンパ』が気に入らないのなら、他のところだけでも読んでやればいいよ。」
「・・・うん、まぁ、ありがとう。」
 依然、気乗りのしない感じで父はそう言いました。

 別れ際、私はこう言いました。
「明日、僕は東京に帰るけど、東京に戻ったら、今度父さんが危篤と聞いても、父さんの死に目には間に合わないかもしれない。だけどさ、もともと余命二、三日でとっくに死んでいたのが、延びているのだから、僕が間に合わなくても、もうけもんだと思って。」
「あぁ、そうだね。」
 そう言って、私と父は笑って別れました。

◆ 東京への帰路

 翌日、東京への帰りの便の中で、私は今回の帰省を振り返っていました。

 帰省初日を除いて、父の病院に面会に行くときは、ユウゾーを一緒に連れていきました。
 父の病室ではベッド際のベンチにちょこんと座って、父からもらったお菓子や同室のおじさんからもらったフルーツジュースを飲んで、父と私が語っている一時間ほどの時間をおとなしくしていました。
 動物園やテーマパークの帰りにも、バスに乗って病院に向かったのですが、最寄りのバス停から病院までの一キロメートルほどの道を行きも帰りも一緒に歩きました。さすがにちょっと疲れて、途中立ち止まることもありましたが、嫌がったり駄々をこねるようなことはありませんでした。
 ユウゾーには、父の病気のことはちゃんとは説明していませんでしたし、説明しても理解は難しかったと思いますが、ユウゾーはきっと何か大事なことを感じていたのだと思います。

 それからこんなことが頭に浮かびました。
 友人の結婚式がなければ、私がこのタイミングで沖縄に帰省することはなかっただろう。
 沖縄帰省の予定がなければ、父の重篤を私が知ることはなかっただろう。
 帰省の前週、東京で再会した旧友達にあの作文のことを思い出させてもらわなければ、あの作文を読ませて父を笑わせることはできなかったろう。
 帰省の前週、「風に吹かれて」を聴き直すことがなかったら、「本物」について父にうまく話を切り出すことはできなかっただろう。
 自分の心と向き合うことに取り組まなければ、「本物」のことなんて知らずに素通りし続けていたのだろうし、そもそも父や母と正面から向き合って話すこともなかっただろう。
 それから、自分の仕事に、キャリアに、人生に行き詰ることがなかったら、自分の心と向き合うなんてしなかっただろう。
 ・・・・・・
 たくさんの縁で、それもまだまだ見えていないたくさんの縁で、今があることに気づかされました。

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