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おとうさんが よくする まちがい

 まだ勤めていたころ、仕事がとても忙しく、毎日終電帰り。終電にさえ間に合わず、タクシーで帰ることもよくあった。
 平日は、朝の出勤時に、子どもたちに見送られる以外、子どもたちと接することもなかった。

 だから、休日は、はりきって子どもたちを連れて出掛けることが多かった。
 東京の西郊から、わざわざ都心にまで出て、上野の博物館や動物園などにも行ったりした。
 混みあっている展示をできるだけスムーズに回れるように せわしなく子どもたちを案内し、子どもたちは初めて見る珍しいものに興奮しながら一日を過ごした。

 帰りの電車で、上の息子がニッコリ笑って「きょうは たのしかったね」と言ったのを見て、当時、僕は満足していた。
 ただ、今、思い返せば、子どもたちは、行き帰りの移動と慣れない人混み、そして せわしさにすっかり くたびれてしまった様子でもあった。
 都心の会社に毎日通っていた僕自身もあまり休まらず、翌日は ぐったりしていた。

~ * ~ * ~ * ~ * ~

 その後、激務が重なり、しまいには心を病んで休職した。
 毎日、家にいるようになったが、僕が しんどそうにしているので、子どもたちは自分たちだけで遊んでいた。

 なので、平日、調子がいいときには、子どもたちを連れて、近場の動物園に行ったりした。
 閑散とした動物園に着くと、子どもたちが回りたいように回らせた。
 子どもたちは、好きなところで立ち止まり、好きなだけ眺めて、また次へと進んでいった。僕はそんな子どもたちの後を ただ ついて行った。
 閉園時間ギリギリまで楽しんだ後、帰る途中に通りかかった公園でも、子どもたちは好きなだけ遊び、僕はそんな子どもたちを ただ見ていた。

 帰りの電車で、上の息子がニッコリ笑って「きょうは たのしかったね」と言った。
 それが、仕事をしていた頃、休日に出かけた帰りの言葉と重なった。
 ただ、このときは、子どもたちは くたびれた様子もなく、とても満足した様子だった。

このとき、僕は気づいた:
「あぁ、無理にがんばってまで、
 都心に行くこともなかったんだ」

~ * ~ * ~ * ~ * ~

 結局、会社には復帰できず クビになったけど、少しずつ家から外に出るようにはなった。
 遠出はあまりしなかったが、家の裏手にある雑木林を朝、散歩するようになった。
 そのころには、子どもたちは学校や幼稚園に通うようになっていた。

 夏休みのある朝、子どもたちが僕の散歩についてきた。
 最初はいつもの散歩道を歩いていたが、途中、子どもたちが気になるものを見つけて立ち止まれば、子どもたちが気の済むまでそこにいて、あとは子どもたちが気になった方に僕が ついて行った。

 そうやって、朝の木洩れ日が斜めに差す、誰もいない雑木林の道を、1時間くらい ただただ歩きながら過ごした。
 林から抜けて、家に帰る途中、上の息子が「今日は、なんだか たのしかったねぇ」と言って、タンポポの綿毛がフワッと膨らむように、ニッコリ笑った。

このとき、僕は気づいた:
「あぁ、なにも特別なところに
 行く必要もなかったんだ」

~ * ~ * ~ * ~ * ~

 子どもと過ごす時間を、特別なものにしたいと思って、特別な場所に連れて行ったり、特別なことをしたりしようする。

だけど、実は、
誰かと過ごす時間を
特別なものにするために、
特別な所に行く必要はない。

特別な物を持つ必要も、
特別な事をする必要も、
特別な役をする必要もない。

きっと、特別なものにするのは、
もっと身近でありふれた「何か」で、
それは自分の中にある、と思う。

みんなも穏やかでありますように〇3
てつろう拝

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