4. 実家の片づけ
◆ 朝の散歩
翌朝、私とユウゾーは、小学校に行く姪達と一緒に朝食をとってから、近所に散歩に出かけました。
実家は港の近くにあり、その港からは離島行きのフェリーが行き来していました。私達のすまいは海からだいぶ離れているので、普段、船を見ないユウゾーに船を見せようと、港の方に歩いて行きました。
朝の涼しい潮風が吹く、気持ちのいい晴れた朝でした。
欄干の親柱が大きな竜であることから通称「竜橋」と呼ばれる橋を渡り、大きなフェリー達を眺めながら、グルッと船着き場を一回りしました。また橋のところへ戻ってきたとき、ふと昔のことを思い出しました。私はまだ父に会ったことのないユウゾーにこんな話をしました。
あれは、私が高校三年の年末のことでした。
その12月、私は第一志望の大学の推薦入試を受けて、結果を待っていた時期でした。
夜九時ごろ、私が机に向かって勉強をしていたら、玄関のドアが開いて、父が
「ホッホーイ!落ちたー!」
と叫びました。受験生の子を持つ親として、縁起の悪い、あるまじき行為だと思います。
玄関の方を振り返ると、笑いで溢れた、酔っ払った父がずぶぬれで立っていました。私は窓から外を見ましたが、星空でした。その日は一日とてもいい天気でした。
「海に落ちたー!海に落ちたー!」
父はそう叫びながら、風呂場に入って行きました。
シャワーから上がった父はずぶぬれの経緯を語り始めました。
飲み屋からの帰り、父は近所の港を通って、船着き場の岸壁沿いに歩いていました。
岸壁には何人かの釣り人がいて、もともと釣り好きだった父は、その人達が何を釣っているのかなとよそ見をしながら歩いていました。
左側を海に臨みながら、その岸壁を直進すると、その端には少し右側に寄ったところに橋がかかっていました。岸壁と橋の間には大人くらいの高さがあります。今は、橋から道なりに下る坂があるのですが、当時、まだその坂は完成しておらず、橋を渡るためには岸壁の端まで行って後、右に向かって橋の側まで行って、そこから階段を上らなければなりませんでした。
父は、海側にあたる左の方を向きながら、釣り人達を見て歩いていましたが、釣り人達が次第に自分の方を向いていることに気がつきました。「釣れてるかーい?楽しんでねー!」なんて言っているうちに、空を踏んで真っ逆さまに落ちました。
次の瞬間、ジャッボーン!と水の中にいました。
父は橋の灯りに照らされて明るい水面を認めると、その方へ、つまり上の方へ泳いでいきました。右足の靴が脱げかかっていたので、靴が脱げないように右脚を横に伸ばして、両手で水を掻きわけて上がりました。
水面に顔を出すと、たまたま近くに小型ボートがあったので、その上によじ登りました。靴が脱げないように右脚は横に伸ばしたままにするのを忘れずに。
一方で、岸壁の上では大騒ぎでした。よそ見しながらそばを歩いていく酔っ払いに気づいた釣り人達は、その酔っ払いが心配で様子を見ていたら、案の定、酔っ払いは岸壁の突きあたりまで前を見ずに、そのまま岸壁の向こうに落ちてしまいました。
釣り人達は、慌てて駆け寄って、岸壁から3メートルほど下のボートの上にいる父に「大丈夫かー」と声をかけるもの、公衆電話まで119番に電話をかけに行くもの、とにかく釣り人達の静かな夜は大騒ぎになりました。
やがてサイレンの音が近づいてきて、消防隊員がボートにはしごをかけて、父は岸壁の上に戻りました。
その後、父は救急隊員から怪我がないかチェックを受けて、消防隊員の差し出した出動記録票に署名をして、パトランプが赤くきらめく中、悠々と家に帰ってきたそうです。
いくら南国沖縄とはいえ、年末の海は冷たいので、パニックになって心臓マヒにならなくて良かったと思いましたし、何よりも、父を救ったボートが落ちたところになかったのは本当に運が良い人だなと思いました。
ちなみに、その二、三日後に志望大学から速達で届いた私の合否通知の結果は、晴れて合格でした。今思うと、私が大学に合格したのは、ひょっとしたら、父が代わりに落ちてくれたおかげかもしれませんね。
「おじいちゃん、このあたりから落ちたんだよ。おかしいよね。」
私が橋の欄干から岸壁の方を指さして話し終えると、ユウゾーは橋の欄干から下の方を見ながら、こう言いました。
「おじいちゃん、こんなところから落ちたんだー。おかしいね。」
◆ 片付け強行
散歩から帰ってきた私は、なんだかとてもすがすがしい気持ちでした。
そしてそのまま、テレビの部屋にあるちゃぶ台を捨てにかかりました。
ちゃぶ台と言っても、前の日の夕食やその日の朝食で使ったものではありません。それとは別に、同じ部屋に同じ大きさの、しかも天板に穴のあいたちゃぶ台が、押し入れのふすまに立てかけてありました。布団の出し入れでさえも、この壊れたちゃぶ台を一度どけて、またたてかける必要がありました。
私がそのちゃぶ台を運び出そうとすると、母が慌ててやってきました。私は言いました。
「このちゃぶ台、捨てるね。」
「イーィッ、使うってば!」
「いつ使うの?」
「ツグミ達の部屋に、お客さんを通すときに。」
「今までそんなことあった?」
「・・・」
母は言葉を詰まらせました。私が家を出る前、そのような状況は一度もありませんでしたし、荷物で一杯になった今、そのようなことは起こり得ないことでした。そして、このちゃぶ台も人に譲るほど高価なものでも、私達にとって思い入れのあるものでも何でもないものでした。母はただ物を手放せないだけだったのです。
私は言いました。
「ちゃぶ台は今使っているのだけで十分だ。これを置いているのは無駄だから、捨てるね。」
「あー・・・、うーん・・・」
私はちゃぶ台をアパートのゴミ捨て場に置きました。
次に、ツグミ親子の部屋に置いてある古い14インチのブラウン管テレビに手をつけました。もう大きい液晶テレビが隣の部屋にあり、またアナログ放送が終了してからすでに三カ月が経っていました。もちろん、この古いテレビでは新しいデジタル放送を見ることはできません。
「台所に立っている時に、ちょうど見やすい位置にあっていいから、置いておいて。」
母はそう言っていましたが、それもただの言い訳でした。そのまま、古いテレビと壊れたテレビ台を運び出しました。
捨てると言っても、ゴミになるわけではありませんでした。このアパートのゴミ捨て場に、使えそうなものを出しておけば、リサイクル業者が回収して行ってくれるのでした。あるいは、その辺をうろついている浮浪者達がお金になりそうなものはみんな持って行ってくれるのでした。
浮浪者じゃなくたって、持っていきます。私も子どものころ、母に言いつけられて、転勤族が住む近くの社宅のゴミ捨て場に置物や家具をよく拾いに行きました。
当時、拾ってきた母の「戦利品」、つまり古いキズものの置物などが、なおタンスの上に埃をかぶって、あるいは押し入れの奥にひっそりと置かれていました。テレビの部屋、ツグミ達の部屋に置いてあった、使われていない、大きめの家具や置物を、ちゃぶ台と同じような対話の末、次々とゴミ捨て場へ運んでいきました。
押し入れの奥や天袋には食器や小物が入った段ボールがいくつもありました。それらを一旦、部屋に出しました。一つを開けて、一点一点、母に使うかどうか確認して、特に思い入れのないものは用意しておいた不要品用の段ボールに入れていきました。
この辺から、母も調子が出てきたので、後は母に任せることにしました。
いつのまにか昼過ぎになっていて、二人の姪達も小学校から帰ってきました。私は彼女達に、彼女達の部屋にあった古いガラクタを整理したので、テレビの部屋に置いてある彼女達のものは、自分達の部屋に持っていくように言いました。
これまで母に不要品を捨てるように訴えてきて、それでも捨てようとしない母を見て諦めていた彼女達は、自分の部屋にあった要らないものがなくなったことと部屋が広く使えるようになることを喜んで、とても協力的に整理にかかり始めました。
「俺がここにいる一週間の間に、このテレビ部屋のこのふすまから隣の母さんの部屋へ通れるようにするんだ。」
そう言い置いて、私とユウゾーは父の病院へ面会に家を出ました。
家を出るとき、アパートのゴミ捨て場の側を通りかかったら、不要品の山はもうすでにきれいに持っていかれた後でした。
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