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14. 父の最後の生活

 私が東京に戻ってから、父は腹水を抜いた後の処置のため二度ほど手術を受けました。そして、11月末には退院しました。危篤だといって入院してから一ヶ月も経っていませんでした。
 退院したとき、父はそのまま別居先のアパートに戻るつもりでした。
 一方で、退院するまでの間、父は一、二度、外出と外泊の機会もあって、そのときは実家に来て家族と過ごしていました。
 先の帰省中、テレビの部屋を片付けると私が言いだしたとき、「お父さんが退院したら戻ってくるかもしれないから」と言ってあんなに頑なに拒んでいた母や妹のツグミでしたが、このときの父の変わり様を見て、心変わりをしたようです。
 母は、父が退院したらみんなで片づけたテレビの部屋に戻ってきてもいいと、思うようになっていました。しかし、自分から口に出すことはなかなかできませんでした。
 結局、退院の日まで母は父に言い出すことはできませんでした。
 そして、退院の日、父は最初に別居先のアパートに戻りました。それから、実家に寄りました。そのとき、たまたま実家に居合わせたモミジがぽろっと母が戻ってきてもいいと思っていることを口にしました。
 そうして、父は最後の入院までの、一ヶ月半を実家で過ごすことになりました。偶然が偶然を紡いでいく、そんな感じで、父は実家に戻ることになり、人生最後の日々を過ごすことになったのです。

◆ 父の実家生活

 実家での最後の一ヶ月半の父の様子は、家族の誰も夢にも見なかったことでした。
 父は一度も誰とも口論をしませんでした。
 いつも何か不満げで、怒っていてすぐカッとなる父は、以前なら誰か父の考えに異論を唱えようものなら、怒って厳しい口調で正論を主張していました。
 しかし、実家での最後の日々は、誰に対しても、たとえツグミや母が相変わらず整然としない話し方で何を言っても、「そういう考えもあるね」とか言って、ただニコニコして聞いていたそうです。

 先の入院で、病院食をおいしいと感じるようになっていた父にとって、普通の味付けの料理は濃過ぎて食べられないようになっていました。そこで母は、父だけのためにとても薄口の食事を、父の薬の時間に合わせて、毎日、毎食欠かさず用意しました。時間にルーズで、しかも料理が苦手で嫌いな母しか見たことがなかった私はこれにも驚きました。妹達によれば実は数年前から、母は料理が好きで得意になっていたそうです。
 一方、父は機械音痴の母のためにオーディオ機器を買いに、自分で歩ける最後の日まで家電店に通っていました。そして、いつもキッチンにいてゆっくりテレビを見られない母のために、ポータブルラジオやポータブルテレビを買ってあげていました。父が母に何かを買ってあげたというのは、これ以外に私には記憶がありません。
 そして、何よりも私が驚いたのは、母が父を膝枕して、頭を撫でていたこともあったということです。
 物心ついてから、母はいつも父に背を向けていて、母が自分から父に触れているところなんて見たことがなかった私には、にわかには信じられない話でした。
 昔から、母はいつも父とは逆の斜め前に顎をツンと突き出していました。
 父が死にかけたというのに、先の帰省の間、母は一度も父の入院先に見舞いには行こうとはしませんでした。
 先の帰省で、父を受け入れないのかという私の問いに、母は「アンタのお父さんは誰にも迷惑かけずに独りで死を迎えたいって思っているから、家には戻りたくないはずよ。」と言って、父を受け入れない言い訳をしていました。
 また、昔から、母は「自分にはヤンバルの実家にオジイがお墓の土地を用意してくれているから、自分が死んだらそこに入るつもり。アンタのお父さんはお墓を残すつもりはないだろうから、お父さんの生まれた与那国の海にでも遺骨を撒いたら。だけど、絶対一緒のお墓は嫌だからね。」というようなことを言っていました。
 そうして、そのときが来てみると、母は「全部撒くと淋しいから撒くのは少しにして。自分が死んだら一緒のお墓に入れてほしい。」と言い出していました。
 そして、私はこう思いました。
 これまで生きた人生の半分、あんなに確執のあった二人がこういうことになるなんて、父の最後はとても幸せだったろうな、と。
 私が成人式で帰省したとき、「離婚したいけど、慰謝料を払うお金がないから離婚できない」と父が無力感から諦めたように言っていたことを思い出しました。私達家族が貧乏だったことにはこういう意味があったのかと感じました。

 通夜初日、葬儀の手配を取り仕切っていた妹達に、「そういえば父さんは葬儀をやりたくないっていうことじゃなかったっけ?」と、私が聞くと、妹達の返事はこうでした。
「父さんは最後の方は『お母さんのやりたいようにやってくれればいいよ。』だって。」
 マルクス唯物論者の父は、もともと宗教というものにものすごい反感を持っていました。お坊さんや神主さんなど何も生産しない宗教関係者をあたかも搾取者、労働者の敵として激しく敵視しているかのようでした。宗教的なものには意味がないと強く否定していました。しかし、その否定する力でその存在を認めてしまっている矛盾に気づかずにいたようでした。
 ですが、最後の父のこの答えから、私は父が宗教にこだわらない、本当の無宗教者になったとわかりました。どんな宗教が在っても無くても構わない、この無執着に、本当の無宗教者としての父の幸せな心境をうかがい知ることができました。

◆ 父の闘病生活

 一方、父の闘病生活は大変苦しいものでもありました。
 鎮痛剤が効かず、一晩中起きているときもあったそうです。
 しかし、父は最後まで自分ができることは自分でやろうとしていました。
 歩ける間は、散歩は毎日欠かさなかったそうです。母から頼まれた日々のお遣いにも重い足取りながらも歩いて行きました。
 とうとう外を歩けなくなって、家で過ごすようになっても身の回りのことは自分でやっていました。
 どんどんできないことが増えていく中でも、父はまだ生きることを諦めませんでした。
 そういう気持ちから、父はある新薬を試してみることにしました。
 新薬を服用し始めたある晩、亡くなる前々日のことですが、食事中に吐いてしまいました。
「ツグミさーん、ツグミさーん、お父さん、吐いてしまった。」
 父の呼ぶ声を聞いて隣の部屋から駆けつけたツグミは、
「お父さん、大丈夫、大丈夫・・・」
 そう言って父を慰めながら、父の服についた嘔吐物を拭いて、着替えさせました。
 自分で食事が摂れなくなったことを知った父は、これ以上、自宅で過ごせないことを悟り、翌朝、つまり亡くなる前の日、自分で入院の支度を整えて、タクシーの手配をしました。しかし、いざ、家を出ようとすると歩けませんでした。父はツグミに抱えられながら、タクシーに乗り込み、ツグミと一緒に病院へ向かいました。
 病院では、看護師が車いすを用意して待ってくれていました。車いすの父は、病院の受付に向かい、自分で入院手続を済ませて、最初の診察を受けました。このとき、父はまた退院するつもりでいたそうです。
 そして病室に入ると、ツグミに息切れしながらも爽快さを感じさせるような声でこう言って別れたそうです。
「ツグミさん、不快な感覚はあるけど、体全身どこにも痛みは全くないよ!」
 これを聞いたとき、私は冷たい父の安らかな顔を見ました。
 もちろん鎮痛剤もあってのことだと思います。が、それでも先の帰省で、鎮痛剤が効かないと言ってしかめっ面をしていた父が、このときには不快な感覚を感じても強張らずにその感覚を受けとめられるようになっていたことを知り、父が痛みで苦しむことがなく死を迎えられて、本当に良かったと思いました。
 そして、先の帰省の直前に、余命幾ばくもないと言われて孤独死を決意した父が、今度はきっとそのとき以上に不快な感覚を感じながらも、まだ生きることを諦めていなかったことに、こう思いました。父は自分が生かされているという事実、生きる意味について死ぬ前には知っていたのではないか、と。

 実家での父の最後の一ヶ月半の話を聞かされて、私はこう思いました。
 いつもケンカ腰で、不満を溜め込んで、こらえて、怒っていた父は、最後の日々をとてもリラックスして、満ち足りて、幸せに過ごしていた、と。
「人は毎日毎日生まれ変わっている」と言われることがあります。人は昨日までの自分に引きずられてなかなか抜け出せないけど、その気になれば、ちゃんと気づけば、その瞬間に、その束縛から、苦悩の人生から抜け出せる、そんな生き様を私は初めて身近な例として知ることになりました。私はそれまで、父のことを反面教師としか捉えていませんでしたが、父のように死を迎えたい、と初めて父の生き様に共感しました。
 それから、父の最後の幸せの日々は、これまで30年余りずっとバラバラだった家族がやっとひとつになった日々でもあったことにも気づかされました。
 私も妹達も、父は死ぬ前に幸せになれた、間に合った、本当に良かったと、毎晩語り明かしました。

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