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5. 父の若いころ

 その日、作文「家族」が手元にないので、父との面会では、父の話を聞こうと思っていました。
 もともと父は自分のことをあまり語りませんでしたので、私が父について知っていたのは、母や大叔父から聞いた父の経歴や失敗談ばかりでした。父が何を考えて生きてきたのか、というようなことは一度も聞いたことがありませんでした。
 そこで、その日は、父の若いころ、特に全く自由な時間であった学生時代、何を考えていていたのか、聞いてみようと思いました。

◆ 父の生い立ちと経歴

 父は、戦後の混乱がようやく落ち着きつつあった1950年に与那国で生まれました。父が生まれてすぐに祖父が亡くなり、祖母の弟である大叔父の一家とともに那覇に渡りました。そして、那覇の進学高校に進学し、当時の国費留学制度で愛媛大学に進学しました。
 当時、沖縄は日本復帰前で、米軍統治下の琉球政府でしたので、日本の外国でした。沖縄には医学部がなかったので、医師不足の解消のために、琉球政府は学生を選抜して日本の大学に派遣していました。それが国費留学制度の始まりなのですが、父のころには、医学部以外にも選抜枠があり、父は英語枠で選抜されました。
 留学生に採用されたときの話を昔、父から聞いたことがあります。採用されて進学希望の大学を聞かれたとき、父は自信満々で「もちろん東大だ!」と言ったら、担当官の方から、「君の数学の成績じゃ到底無理。このあたりにしておきなさい」とほとんど選択の自由なく言われたということでした。留学生として採用されたのも、本当に運が良かったのでしょうね。
「『坊っちゃん』の街というのもいいか」と愛媛の大学に行った父は、勉学をほっぽりだして当時盛んだった学生運動に身を投じ、結局卒業できずに中退しました。
 大学を卒業できずに沖縄に戻った父は、高校閥のおかげで仕事を得ることができたと、母から聞きました。
 沖縄に戻ってからは、仕事は二の次で、雀荘にこもって麻雀ばかりやっていたそうです。あまりに度が過ぎて何カ月も無断欠勤が続いたので、とうとう人事から免職処分を食らいそうだったのを、同じ高校閥の先輩や同期の配慮で、コザ市(今の沖縄市)の出向先に一時流されることで沙汰が下りました。このとき高校同期の同僚数名が、父の始末書の保証人として連名でサインしてくれたそうです。
 高校の友人まで巻き添えにしたこともあるのでしょうが、米軍基地の街、コザでは父の英語が重宝されたこともあって、父も少し真面目に働くようになり、そのころ、母とも結婚しました。
 数年後、父は那覇の本部に戻りますが、キャリアコースを完全に外れたこともあって、ほどほどに仕事を続け、中年以降は離島を渡り続けながら過ごし、定年退職を迎えていました。

◆ 父と次男の初対面

 その日、ユウゾーを連れて、私は父の病室を訪れました。
 私には二人の息子がいます。父は長男ゲンタとは、一、二度会ったことはありましたが、それまで次男ユウゾーを見たことはありませんでした。
 ユウゾーは大きなアヒル口を除いて、私とそっくりでした。そして、私以上に、父の幼いころの写真によく似ていました。私は、父の顔に似た次男を、いつか父に会わせたいと思っていました。
 父はユウゾーを見て、
「ハーイ、初めまして。君がユウゾー君か?」
 ユウゾーは静かにうなずきました。
「もう何歳になったァ?」
「まだ三歳だけど、もうすぐ四歳。」
 ユウゾーは指を立てて示しました。
「おじいちゃんのお友達が持ってきてくれたお菓子があるけど、食べるネェ?」
 父が出したチョコレートを、ユウゾーは臆せずつまみ始めました。

 父が話しました。
「模合の友達がお見舞いに来てくれてサ、お菓子をもらったんだけど、ちょっと味が濃くてサァ。けど、これは食べる気しないけど、病院の食事がおいしいサァ。ここに入院する前の一週間、胸だけでなくてお腹にも水が溜まって、全然食欲なくてサ。その間、水しか飲まなかったんだけど、この前の手術で体に溜まった水を全部抜いてもらったら、急に食欲が出てきたサ。それにしても、何もしないでも食事が出てくるのは本当にありがたいサァ。」
 これを聞いて、最初の入院では病院食がまずいと言って飛び出した父が、薄味の病院食をおいしいと喜んで食べているのは、一週間の「水断食」で味覚が繊細になったおかげのように思われました。本人が意図しないでも、体が自然とそうさせたように感じました。
「父さんの体は生きようとしているんだねぇ。」
 私は思わず言いました。
 父はよくわからないような顔をしていました。

◆ 父、泣く

 私はユウゾーの方を見ながら、父にこう切り出しました。
「僕も子供ができて、自分の親の話をしようとしたときに、父さんの子供のときの話と、結婚してからの話はこれまでも聞いたことあったのだけど、父さんが大学に行ってから結婚するまでの若いころの話を聞いたことがないなと思ってね。そのときのことで話したいことない?」
「別に人に話すほどたいしたことなんてないよ。」
「じゃあ、愛媛の大学に行ったのは知っているけど、大学中退してから沖縄に戻る前に一時期、東京にもいたこともあるんだってね?そのとき、どんなことを考えていたの?」
 父は語り始めました。
「あぁ、東京の知り合いのところに住み込んで、そいつらといっしょに学生運動していただけだよ。」
 しばらく、学生運動の経緯とその後の評価について、父と話をしていましたが、途中で父は沖縄の復帰運動について話を始めました。
「そういえば、学生運動をしていたころ、沖縄の復帰運動も盛んだったんだけど、そのころ、コザンチュ(コザ市、現在の沖縄市の人たち)はこう言っていたサ、『俺達はヤマトゥーンチュ(日本人)でもアメリカー(アメリカ人)でもない、俺達はウチナーンチュだ』って。わからんかったなぁ。あの頃は。」
 当時、コザ市は米軍基地に経済を依存していました。駐留していた米兵達の飲み屋街で栄えていましたが、米兵がらみの事件も多発していて、コザの人達はとても複雑な思いでした。一方、コザンチュに対して、那覇の人達はナーファンチュと呼ばれていました。
「あのころ、沖縄のインテリ層だったナーファンチュは、沖縄は米軍統治から離れて日本に復帰しようって言っていたけど、コザンチュは違っていた。あいつらは、『俺達はヤマトゥーンチュでもアメリカーでもない、俺達はウチナーンチュだ』って言っていたサ。」
 しばらく沈黙してからこう言いました。
「最後まで、あいつらとはわかり合えなかったなぁ。」
 そう言う父の目には涙が溢れていました。自分の涙に気づいた父はパジャマの袖で涙を拭きながら、しばらく泣いていました。
 父が泣くのを私が見たのは、そのときが初めてでした。私はベッド際でただ静かに座っていました。

 父の死後、蔵書を整理しているとき、沖縄文化に関わる古い本をいくつか見つけました。学生時代、内地でどこかの琉球文化研究会に所属して、沖縄方言や沖縄の民話、倭民族と琉球民族の比較など民族の研究書を読みあさっていたようです。
 私も大学進学で沖縄を出てから、自分が沖縄出身であると強烈に意識した時期がありました。まして沖縄が外国だったころに内地で過ごしていた父にとっては、その意識はとても強いものだったのでしょう。
 父は青春時代を沖縄の復帰運動に捧げたのでしょう。そしてその燃えるような激しい想いのために、きっといろいろな人と強烈な思い出を刻んできたのでしょう。そこには友情も喜びもあったと同時に、傷ついたこともあったことでしょう。
 沖縄返還ではいろいろな確執があり、それが今も沖縄の抱える矛盾として続いています。沖縄返還後、父は基地の街、コザで現場を目の当たりにして、衝撃的だったことでしょう。その後30年以上経ってもなお基地や経済の問題が続いている沖縄。それに加え、次第に明かされていった返還前に秘密裏に為された様々な交渉の内容。沖縄返還の推進運動に加わっていた一人として、そのような復帰後の沖縄を見てきた父には複雑な思いもあったでしょう。
 このとき、父が口にした「わかり合えなかった」ことが具体的に何なのか、私は結局わかりませんでした。ただ、同じ沖縄人同士でわかり合えなかった悔しさを、そして若いころ抱いた理想と半生を通して見てきた現実に対する悔しさを、今振り返り、素直に味わって、涙を流している父を見て、父の心が開き始めた、と感じていました。
 涙を流している父を前にして、父が語ったことも語らなかったことも、もう私にはどうでもいいことになっていました。ただ、全てをセピア色に変えていく優しい時間を、静かに感じていました。

◆ 寝たきりの養生法

 父が落ち着きを取り戻し、酸素マスクを口に当て始めたのを見て、その日はそろそろ引き上げようと思いました。締めくくりに私はこんな話をしました。
「父さん、人間、寝たきりになって、脚を使わなくなると、血の巡りが悪くなってどんどん弱ってくるんだ。」
 フム、と父は弱く頷きました。
「僕さ、一度、禅のお寺に行ったときに、そこのお坊さんから教えてもらった話なんだけど。江戸時代の偉いお坊さんに白隠っていうお坊さんがいて、そのお弟子さんに病で床に伏していたお殿様がいたんだって。そのお殿様はとても有望なお弟子さんでもあったから、民のためにもそんな人が殿様で在り続けてほしいと思っていた白隠さんは、座禅というのは何も座れなくもできるし、寝たきりでもできる養生法がある、といって手紙に丁寧に書いて送ったんだって。その養生法というのはね、まず脚から始めるんだ。」
 フム、と今度は父は興味深げに頷きました。
「仰向けで横になった状態で、まず脚を真っ直ぐ伸ばして揃えて、足のつまさきを頭の方に向けるようにして、踵を自分の下の方に突き出すようにして、踵を突きだしたまましばらくその場で足踏みするように脚を交互に曲げたり伸ばしたりするんだ。寝たきりで普段は脚を動かさない人にとって、いい脚の運動になるよね。そうそう、そんな感じ。」
 私の話を聞きながら、フムと言って、父はベッドの上で足踏み運動をしていました。
「そして、足踏みを終えたら、脚を伸ばして、仰向けでリラックスした状態になって、今度は、目を閉じて、へその下あたりに、意識を置いて、ゆったりとお腹で息をするんだ。」
 父はお腹で息をしようとしましたが、その呼吸は浅いものでした。私は構わず続けました。
「そのうち、息が落ち着いてきたら、へその下あたりに意識を置いたまま、『ここに自分の体のエネルギーの源がある、ここに自分の故郷がある、ここから自分は宇宙と繋がっている』ってイメージするんだ。好きなだけ、そうやって目を閉じて、静かに息をし続けると、いいんだって。」
 父は仰向けのまま、静かに息をしていました。ベッド際で、私とユウゾーは静かに座っていました。
 しばらく経って、父が目を開けて、体を起こすと、私は父と握手をして、こう言いました。
「今日はそろそろ帰るね。そういえば、今度、父さんに、読んでほしいものがあるんだよ。僕が高校のときに書いた作文なんだけどね、これから高校に行って、コピー取ってくるから、明日には持ってこれるかな。」
 そして、それまでおとなしくしていたユウゾーの手を握り、病室を後にしました。

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