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新年早々、地元のヤンキーのコミュ力に感動した話

新年早々、地元のヤンキーのコミュ力に感動したので書き留めておきたい。

僕の地元のスターバックスには、いつも隅っこの席でギターの練習をしているおじさんがいる。

これまでも度々見かけていたが、サイレントギターだから音が迷惑ということもないし、まあそういう人もいるか、というくらいに思って特に気にも留めていなかった。しかし、このおじさんが今回の話の重要な登場人物の一人となる。

この日、僕とおじさんの間の席にどかどかと大きな音を立てて二人組のヤンキーが座り込んできた。

その内の一人が席に座るなりイヤホンなしでyoutubeを開き、隣で読書をしている僕からすればその音が大変耳障りであった。正直なところ、内心で「ちっ、うるせーな」と思っていたし、あんまりひどければ注意してやめてもらうか別の席に移動する必要があるなと考え始めていた。

と、その時、そのヤンキーがyoutubeを閉じて隣のおじさんに話しかけたのである。

「そのギター、かっこいいっすね!」と。

この時点で、僕のなかでこのヤンキーに対する敵意は完全に消し飛んでいた。彼のおじさんに対するふるまいには相手に対するあまりにも純粋な興味が見て取れたからである。僕にはそれがとても好ましく思えたし、やっぱり田舎のヤンキーはかわいいところがあるな、といつのまにか謎の親目線で彼らのことを観察するようになっていた。

しかし、である。
これ幸いとばかりにギターのおじさんが二人のヤンキーを相手に長々と自分語りを始めたのである。

「おれはここで好きでギターを弾いているのであって、かっこいいと思ってもらいたくてそうしているのではない。だから周りからどう思われようと構わない」云々。

若者に対するおじさんの自分語り。これはまずい。現代においてそれは最もやってはいけない行為とされているものの一つである。

しかもその話がとてつもなく長い。ヤンキーのうち、一人が「おれ、ちょっとトイレ」と席を立ち、もう一人は若干おじさんに背を向けて携帯をいじり出した。しかしおじさんはかまわず話し続ける。

僕はやり切れない気持ちになり、どうかこの事態が一刻も早く収束するよう願いながら、隣で展開される世代間交流のゆくえを固唾を呑んで見守っていた。

僕は彼らのコミュ力に本当に感心してしまった

そして、一人がトイレから帰って来てしばらくした頃、ずっと携帯をいじっていた方のヤンキーが顔を上げ、次のように言ったのである。

「要は、自分の信念を貫くことが大事ってことっすよね!」

なんと雑な要約だろう。

しかし、同時に完璧な要約でもある。

おじさんの話の長さにも関わらず、おじさんの話の要点はその一言に完全に集約できるからである。

この一言によってまた少しの間インタラクティブな関係性が回復するが、しかしまたすぐにおじさんの一方的な語りが場を支配するようになる。

しばらくヤンキー二人組はまた退屈そうな雰囲気を漂わせるようになるが、そこでもう一人のヤンキーがおじさんに言った一言がとてもすばらしかった。

「おとうさん、ラッパーが向いてると思いますよ」と彼は言ったのである。

僕はこれには感動してしまった。

おじさんが一方的なマシンガントークを続けていることがここには明らかに含意されている。しかし、そのことをこんなにも肯定的に表現することができるのか。

案の定、おじさんは自らが皮肉を言われたことに全く気付いてはいない。もしかしたら、この言葉を発したヤンキーの子自身も、自らがあまりにも高度な皮肉を生み出していることに気づいていなかったかもしれない。その言い方には一切の悪意が含まれていなかったから。

こうして大きな破綻に至ることなく両者の間の交流は終了し、無事解散となったのである。

真摯に耳を傾けるわけではないが、ゆるく共に生きるスキル

この間、ヤンキー・・・(いや、この言い方はもうやめておこう。敬意を表し彼らを未来ある「若者」と呼ぶことにする)若者二人が発揮していたコミュニケーション力のすごさがおわかりだろうか。

彼らは途中で席を立ち、携帯をいじりもしたが、おじさんの存在を決して無視してはいなかったのだ。そこにはとても自然な交流の形があった。それはあたかも、仲の良い友達の家に行き、同じ部屋で別々のことをして過ごすような自然さであった。互いに別のことに注意を向けてはいるけれど、そこにその人がいることへの承認も同時に存在している。その自然な共存の形に、何かとても大切なことを教えてもらっているような気持になったのである。

彼らは事実おじさんの話に退屈してはいただろう。
しかし、田舎では、退屈なおじさんとの共存は決して避けられない。おじさんは時に退屈かもしれないが、しかし、彼らからたくさんの物を受け継ぐことによって、田舎の若者は一人前になっていくからである。

若者二人のあのふるまいは、同じ地域で生きることに伴うそうした現実を受け入れていくなかで培われたものであるのではないかと僕は思った。

同時に僕たちは、この教訓から都会的な価値観を今一度見つめ直す必要がある。

私たちは所詮互いに切り離された個人であり、過度に干渉すべきではない、という考えに慣らされた僕たちの価値観を。

たとえばそれは、次のような価値観として表現されるだろう。


(引用)NHK News Up(2019年12月9日)

僕もこの方の考えに近い人間なので、何も文句は言えない。
自分にとって利益にならない付き合いに巻き込まれることは本当に嫌いだし、できれば面倒な人間関係からは解放されていたいと思ってしまう。だから、それを強要されない都会的な価値観が自分には合っていると思う。

しかし、である。
同時に僕は、それとは全く異なる価値観を擁護してきてもいるのである。

それはたとえば、トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人々』について僕が書いた5年前の以下の文章に表れている。

僕たちは、自分の生き方を自由に選べることを至上の価値と信じている世代だ。その観点から見ると、僕たち以前の世代の生き方というのはいかにも不自由で、自分を犠牲にし過ぎており、決して理想的な時代ではなかったと感じられることだろう。

先に書いてきたように、トーマス的な生き方は、確かに、自分を欺く生き方である。ブッデンブロークという家の歴史に泥を塗らないことを人生の最優先事項であると考えるトーマスの生き方には、確かに、自律的に生きることのできない人間の弱さがあらわれているかもしれない。あるいは、その時代における社会の在り方が、我々の時代におけるそれと比べて、あまりにも貧しいものであると僕たちは考えてしまいがちである。生まれにも、育ちにもよらず、自由に生き方を選択できること。僕たちは、そのような自由を保障する社会を築いていくべきであるということに、疑いの余地はない。

確かにその通りである。僕たちは、そのような価値観を広く共有しており、少なくとも精神的な次元では、生まれからも、育ちからも、自分は自由であると感じている。

しかし、だからといって、「不自由な」時代の人々の生き方が、我々に比べて豊かでなかったとはいえないのではないだろうか。なぜならば、僕たちの時代よりも、彼らの時代の人びとの方が、自分の人生を愛していたように僕には思えるからだ。つまり、生まれや育ちに左右されることのない自由な生き方は大切だが、僕たちはその価値を重視するあまり、生まれや育ちを愛するということができなくなってしまっているということはないだろうか。しかし、それは、自らの人生を深いところで肯定してくれる根拠を失うということであると僕は思う。

「自分で4,000~5,000円払って上司の話を聞くのはハードルが高い」という価値観は、今では上司の側にも内面化されており、できるだけお説教じみた話はしないように心がけている年長者も多いことだろう。

デートでサイゼリアはあり得ないとか、彼女へのプレゼントに4℃はマジでないよねとか、ネット上でまことしやかに語られる規範も同様である。

これらの現代的な価値観は異質な世代・異質な場所で生きる人同士のコミュニケーションに強い制限をかけることによってある種の権利を保障するように見えるが、同時に他者との断絶を深め、自由なコミュニケーションの可能性を奪っているという側面もあるのではないだろうか。

要するに、おじさんは長々と自分語りをしたっていいし、若者はそれを話半分に聞いていてもかまわないのではないかと思うのだ。ただそこに相手の存在に対する承認がありさえすれば。僕はそのことをこの日の二人の若者のふるまいから学んだと思っている。

そして僕はこれを書き終えてこう思うのである。
隣で聞き耳を立ててこんな文章を書いている僕がこの日の登場人物のなかで一番気持ち悪いやつなのではないか、と。

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