「死にたければ一人で死ね」と自分が言われたら、、、
生きている価値あるのかな、とふと思う日はたまにある。
病んでいるとかではない。
「なんかダメな日」というやつで、
朝起きても家の中をふらふら歩きまわって半日終わってたり、5分で終わるような食器洗いが2時間かかったり、何かをはじめても睡魔に襲われて何も手につかなかったり、挙げ句の果てにはなんだか虚しくなってきて涙は止まらなくなる。
「なんかダメな日」が長引くときもある。何も手につかないから、もちろん何も進まない。朝が来ること自体が嫌になる。
こんなときの最も辛い時期に、「死にたければ一人で死ね」と言われたら、自分はどうだろうか。
幸いにも、私は周りの人にこんなことを言われたことは未だかつて無い。
しかし、こんなことを言われたら、死ぬことを選択肢の一つにいれるかもしれない。
とはいえ、現段階では、
仏教的には自殺が一番ダメだから、自殺はしないし、お葬式やら片付けやらにお金もかかって、周りに迷惑がかかるから、わたしは死にはしないだろうなと思う。あと、私にはまだまだやりたいことがいっぱいあるから完遂するまでは死ねない。
私にはまだ希望があるから、死なないとしても、この先、この希望は無くなるかもしれない。将来のことなんてわからない。
絶望のただ中にいる人に「死にたければ一人で死ね」って言ってはダメだ。
自分だって、いつ〈絶望のただ中にいる人〉になるかはわからないわけで、明日は自分かもしれない。
「死にたければ一人で死ね」は想像力のかけらもない発言なのだ。
少し前に、川崎の殺傷事件でこの言葉が取りざたされていて、それから、しばらく気がかりだった。「『死にたければ一人で死ね』って言うのはやめよう」っていう意見に対して、批判が集まり、やや炎上していた。
その後、爆笑問題の太田光が持論を述べると称賛が集まった。
このnoteにオチはない。気がかりだったことを、粗めではあるが文章化できた、ということだけだ。「やっぱ、これはダメな文言だったな」と私の中で決定したというだけのことだ。
そんな冷たいこと言ってないで、助けてくれよ、って話だよな、とも思う。
死にたくなったら、森山直太朗の「生きていることが辛いなら」の歌詞を真剣に考えるといい。死ぬことがちっぽけで馬鹿らしくなってくるような気がするから。
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