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参照文献*本と映画とドラマと

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何かを見たときの覚書。
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#本

終わらぬ、「あと2週間」。

ナチス・ドイツのある強制収容所では1944年のクリスマスと1945年の新年のあいだの週に、かつてないほど大量の死者を出した。収容所の医長の見解では、過酷さを増した労働条件や悪化した食料事情、気候の変化、新たにひろまった伝染病の疾患が原因ではない。 むしろこの大量死の原因は、多くの被収容者が、クリスマスには家に帰れるという、ありきたりの素朴な希望にすがっていたことに求められる、という[フランクル 2002:128] クリスマスの季節が近づいても、収容所の新聞はいっこうに元気

「”あさって”こそある、と信じている」

お休みは延びに延び、未だ長期休暇をしている。行くはずだった所には飛行機が飛ばなくなり行けなくなった。ただただ自宅待機の時間を過ごしている。 やることややったほうがいいことは山ほどあるのに、手につかないでいる。 気分を上げるためにも何か読もう! と思い立ち、Amazonで本を1冊買った。 荒木優太(編)2019『在野研究ビギナーズ 勝手にはじめる研究生活』明石書店。 15名の「在野研究者」たちが自身の研究生活について述べている本書は少し前に話題にもなった。私が購入した

「過去への反省」と人類学。

「人類学者1人に人類学観は1つづつ」は過言ではない。 いろんな人類学者が世界中にいて、みんなそれぞれ研究場所も対象もテーマも異なる。出会ってきた人や感じてきたことがそれぞれ違うから、人類学者の数だけ人類学観があると言えるのだろう。 しかし、人類学の前提とされていることは共有しているため、研究者同士通じ合えないということではない。 人類学の草創期は「安楽椅子(アームチェアー)の人類学者」と呼ばれる、自分自身で現地調査には行かず現地のことを語る人類学者がおり、それへの批判から

「すべては小さなことのなか」:『椿姫』より

デュマ・フィスは現実に起こることを観察し、それをもとに執筆活動をしていた。『椿姫』もデュマ・フィスが若き頃に愛した高級娼婦とのことが題材になっている。(訳者解説参照) いざ参与観察へさて、明日から少しばかりの参与観察の日々が始まる。文字通りの意味で「書を捨てよ、町へ出よ」状態だ。 私が参与する「ところ」で何か特別なことが起きるんではなく、その「ところ」のいつもの毎日がいつも通り滞りなく続いていてほしい。なにごともない毎日がつぶさに観察できれば、そこで起きているなにかが発見