革新の夢

私の父はその昔、痔の出血が酷くなった時に、漢方薬を家庭に売って回る薬種商の人から三黄瀉心湯の服用を勧められた。結果、出血を治すことができたらしい。そもそも母方の祖母も同じく薬種商の人から三黄瀉心湯や柴胡加竜骨牡蛎湯などを購入していて服用していたようだ。が、祖母の場合はそれよりも某メーカーの大黄甘草湯をドラッグストアで購入して愛用していたように思う。二人ともひどく便秘するタイプだったので三黄瀉心湯の中に配合されている大黄という生薬がいかに重要かということがわかるわけだ。ただ、父の場合には話を聞いた限りでは三黄瀉心湯がよほどピッタリと適応していたのではないかと思わせるものがあった。そして私が闘病中のこと、毎年冬になると父はよく咳をして風邪が治らないということが続いたことがあった。一度は肺気腫で手術を要する年もあったが、ある時、神秘湯を服用させて咳が治ったという経験を得られたことがあった。咳が治った後にはすぐに不眠症になったので酸棗仁湯を与えて回復した。神秘湯に関しては父が愛用していた某メーカーの風邪薬にエフェドリンが含まれていることから思いついたものだ。こうして様々な服用経験を積んでもらった結果、大黄と麻黄を必要とする体質であることがこれでわかったわけだが、酸棗仁湯が本当に不眠症に効いたのかどうかはよくわからない。というのも、その時にこそ再び三黄瀉心湯を使ってみれば、間違いなく三黄瀉心湯証であることを確信できたと考えられたからだ。漢方医学では腹痛の薬を頭痛に使うような応用ができる。頭痛の薬が腹痛の薬になることもまたある。漢方方剤は配合されたいくつもの生薬の複雑な効用によって応用範囲が広いと考えられている。そこで父にとって出血を止められる三黄瀉心湯は不眠症の薬にもなったのではないかと考えられたわけだ。漢方の本質を知らない人にはこのような飛躍した考え方に不合理な点を感じるかもしれないが、そのような飛躍こそが漢方薬を使う時に重要になってくることは漢方医学の古典にも見受けられることだ。今日でも漢方薬医学に独特の考え方があることを知っている人にとっては必ずしも不合理な判断とは思われないであろう。ところで、私には父や祖母のように大黄を含む漢方方剤が適応しないことがわかっている。それでも父と少し似ている点があるとすれば、黄連を含む漢方方剤が良いということだ。私には黄連湯解毒が効いて父には三黄瀉心湯が効く。黄連解毒湯は黄連、黄芩、大黄の三味からなる三黄瀉心湯から大黄を去って黄柏と山梔子を加えたものである。したがって効果もよく似ているはずなのに、父には黄連湯解毒が効かなくて、私の場合は三黄瀉心湯は効かないどころか、これを服用すると体調がひどく悪くなってしまうことがわかっている。間違いなく体質的に差異があって、漢方方剤は厳格に適応を決めなくてはならないという科学的原理があることを強く確信するようになったのは、私の闘病生活も佳境に入った頃、四十歳を過ぎた頃であった。親子で血が繋がっていても体質が違い、血が繋がっていない祖母と父との間には大黄が必要という共通点がある。漢方方剤の適応を決める上で体質に絶対的な差異があるということは、現代の医学では真剣には教えられないことだし、漢方治療に携わっているにしても顕著な治療効果を得られた経験があって、漢方医学に強い興味と関心を持ち続けている医師にしか理解できないことだろう。この差を信じられるかどうかはある意味、漢方医学に対する信仰心を試されているようなものであるとも言える。そしてこのような事実は、漢方治療の容易ならざる複雑な一面があることを知ることのできるよすがともなっている。現代医学の教育を受けた全ての医師は病人ごとに体質を見極めて速かに正しい漢方方剤の選択ができるであろうか?この問題に対する解決策は見出されてはいないのが現状であろう。このような解決のできない問題がある以上、医師にも患者にも漢方薬の本質や漢方医学の独特の思考方法についての深い理解が進まないことは至極当然の帰結であるように思われる。漢方医学は長い時間をかけて優秀な生薬の配合を見出だしていったはずなのに、それを継承するにあたっては間違いのない臨床応用の手法が確立されていない。ゆえに、生薬とその配合による方剤の真価は正しい評価を得られないまま漢方医学は停滞し続けているのだ。漢方医学は夢を見ているのである。その本当の力が明らかにされるような革新が成し遂げられる日の夢を。

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