ヒールが履けるようになった日



長いこと、ヒールを履いて出かけることが出来なかった。


といっても、まったく履けなかったわけではない。
状況にもよるが、一定時間を超えると痛みが出て、
長時間履き(歩き)続けられなかったという意味なのだけれど。


そして、出かける時に、
服に合わせて少しでも踵のある靴を選んだ時は何時も、
『大丈夫かなぁ?ちゃんと、歩けるかなぁ?』
と玄関でしばし考え悩んでしまうことが多く、何気に苦痛なことがあった。


当時の自分は、単純に《自分の足に合う靴が少ない》とか、
考えていたのだけれど
今となっては、《自分の足に合う靴を選ぶことを自分に許してなかった》
のだと思う。


『纏足のように、足を締め付ける靴』が
『自分に(見)合った靴』と無意識の内に考えていたようだ。


それは実は、『足』だけでなく、
『自分自身』に対する思いでもあった。


『自由にのびのび』と生活することを許さずにいたから、
『自由にのびのび』と動くに欠かせない『靴』に制限をかける。


『靴』は、分かりやすい形で出ていただけで、
生活全般の『選択』に同じことが出ていた。


『大人』になって、
自分の意思で自由に何事も選んでよかったハズなのに、
『自分で自分に制限をかける』ようなことを、ずっと続けてた。


『鳥』は、ずっと『鳥かご』の中にいれられていると、
『外にでること』を忘れるという。
『扉』が『開いて』いても、ずっと籠の中に居てしまうのだという。


なんだかそんな状況に、ずっとあったのだと思う。


『成長』し、『鳥かご』の中がだんだん狭く感じ、
身動きが取れなくなり、
初めて『自ら籠に押し込めていた自分』に気づき、
『外の世界』があること知った。


『外の世界』を知ったら、出たくなった。


『出よう』という意思を持ってから
『新しい選択』が湧き出るようになった。
といっても、ホントは、最初からそこにあったのに、
ただ単純に『目に入ってこなかった』だけなのだ。


『視界にある』ことに気づいても、
『自分には選択する価値がない』と思い込んでいただけなのだ。


それに気づいて『選択を変えよう』と思った時、
『自分の足に合ったヒール』に廻りあった。


やはり、一番大事なのは
『自分の想い』
なのだと思う。

いつもありがとうございます。 自分の『好き』に正直でいられるよう 大事に使わせていただきます。