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ジャン・ジョレス氏

 去年、ソルボンヌの卓越した研究者の一人であるSéailles氏が、雑談で講義を伸ばしながら学生に「次の博士論文の口頭審査にはぜひ来なさい。社会主義についての発表で、発表者はガンベッタのように雄弁だぞ」と言った。
 かなりの数の学生がこの呼びかけに応じた。発表者は中くらいの背丈で、茶色の髭を持ち、所作が綺麗で声も心地良かった。アクセントはガスコーニュ方言とプロヴァンス方言が混じった感じで、発表内容はドイツ社会主義の起源についてだった。
 この博論は弁証法的なよくできた作品で、ルターからブノワ・マロンまでの社会主義の発展、もっと正確に言えば、フィヒテとヘーゲルからカール・マルクスとラサール(註:フレディナン・ラサール)までの歴史をしっかりと論述していた。そういえば、この年はブルドー氏の名著が出版された年でもある(註:Jean Bourdeau, Le Socialisme allemend et le nihilisme russe, 1892)。この本はニヒリズムやアナーキズムに関しては内容が薄かったが、ジョレス氏が我々に雄弁に語った話に関しては、多くの詳細を記していて非常に知的で独創的だった。
 そう、ソルボンヌで軽く論争を巻き起こしたこの博論の審査を受けていた人物こそ、ジャン・ジョレス氏なのであった。彼はトゥールーズ大学で教員をしていたが、すでにカルモーの選挙区から社会党の候補として出陣しており、審査の次の日曜日にはほぼ確実に当選しているだろうとされていた。

 この博論は古臭いソルボンヌの教員たちを驚かせた。というのも、彼は社会主義についてラテン語で書いたのである! ルターのキリスト教的社会主義や、フィヒテの観念論的社会主義、ヘーゲル・マルクスの弁証法的社会主義に関して、古いラテン語で書くというのは実際大胆でおかしな試みであった。しかし、安心していいのは、気鋭の大学はこのような自由な試みには寛大であるのに加えて、彼が公教育省で権力を持っている以上、どんな教授も彼をいじめるわけがないのである。ジョレス氏は結局大成功を収めた。
 1885年の議会で彼の演説を聞いた者たちは、彼のことを一流の演説家であると言った。1889年に選挙に落ちた時から彼がトゥルーズで持っていた講義は、時世を捉えたもので、女性たちをエンカレッジするものであった。しかし、彼の口頭審査を聞いた者たちは、彼が少し曖昧なスピリチュアリズム持っているということ以外攻撃する部分を見つけられなかったし、私に至っては、彼の書いたものの中に特別そのようなものを見出すことはできなかったのであった。
 彼らの批判点は、もしかすると、ジョレス氏がマルクスの弁証法よりもフィヒテへの礼賛と情熱に心を寄せている点にあったように思われる。そこには気性の一致があった。フィヒテは素晴らしい伝記もなければ、深い知的方法論もなく、ドイツの核心主義者の中で最も熱心に福音主義に近ついたせいで、1848年にフランスの社会主義者から非難された人間である。ジョレス氏は哲学者であったので、社会変革の数ある流派の中から、フィヒテのような哲学者としてのあり方を好んだということなのだろう。

 このような理由から、我々はジャン・ジョレスが国会に戻ることが確実になったことに対して喜びを感じたのである。彼は国会での議論や社会主義を広める活動の中で、哲学者的あるいは歴史家的な知性のあり方を発揮してくれるはずである。こんなにも珍しく大切な存在はない。
 近代の精神の方向性にすら関わる今日の重大な問題の中には、例えば、(国境付近の不安定な状況を抜きにしても)宗教の問題や第四身分の出現などがあり(註:第四身分とはフランス革命の第三身分が実際にはブルジョワを代表していたことから作られた労働者を表す言葉)、今日のフランス文明にとって、大きな懸案事項となっている。私は、教養のある人々の議会で相応しくない不正義や卑小さが罷り通り、議論が横滑りしているのを見てしばしば打ちひしがれてきた。
 宗教的な問題に関しては、例えば、議会の急進共和派が推進する超自由主義精神にすっかり合意してしまって、多数派であるカトリック反対派が行っている手法、議論、その他のあらゆる行動に嫌悪感を抱くことすらできなくなっている。私は同僚の議員たち、例を挙げればルコント氏(註:急進派の議員Maxime Leconteのことだろう)などが教皇、その無謬性の理論、乙女マリア、聖人などあらゆるものを揶揄っている。しかし、ヘーゲルの理論というのは、彼のいた時代の最も高尚な知性に対して、あらゆる出来事や制度は現時点のみにおいて真実であるかのように思われるが、それは他の方法でそれを見ることよりも理性的なわけでも理性的でないわけでもないということを示したのではなかったか。私は議員たちの判断に対してこの事実をぶつける資格を持っていないことを、常々悔しく思っている。
 さらに言えば、この議会で思い出されるべきはヘーゲルよりもマルクスであろう。私は一般の集会でしばしば、マルクスのこのフレーズが頭によぎっていた:「歴史において、怒りに割かれる場所などない」。ブルボン宮の廊下で、パナマ事件のスキャンダルの不幸に見舞われた時、彼らは自分に対し憐憫の情を覚えるまでもなく、マルクスのこの言葉を思い出すこともなかったわけである:「確かに、私はいつも金持ちで、薔薇と蜜に囲まれたブルジョワを描写しているわけではないが、私は彼らの人格を攻撃はしない。なぜなら現在の経済状況の中では、彼らはそれ以外に動きようがないのだから...」
 もちろん、私はパナマ事件の教訓が忘れられていいとは思わない。しかし、作り直されるべきはむしろ制度で、人ではない。なぜなら「現在の国会の状況において、彼らはそれ以外に動きようがないのだから」
 同様に、毎年、宗教予算を話し合う際や、「教権主義か反教権主義か」を話し合う際には、私が自分にいつも言い聞かせているのは、確かに、宗教の概念は変化し、人間の精神もすでに新たに開花する準備はできているけれど、私はルコント氏らのような人たちに懐柔され、すでに自分たちが失いつつあるものの見方が依然としてフランス人たち、同時代人たちの多数派の考え方であることを忘れてはならないと思っている。

 この考えこそ、ジョレス氏のような人が議会に導入すべき、正確に言えば強化すべき議論であろう。確かに演説台にまでは届いていないが、この考え方は時評においてすでに学者気取りに書かれている。ジョレス氏はそれを実行にまで持っていくのである。
 現状が十分でなく感じるのは彼だけかもしれない。しかし、彼のような人間の周りに、気鋭の若者が集い、行動するための方法を探し、感性を覚醒させるのである。
 私は、プロテスタント的な哀しみから、ちゃちな思い出を混ぜながら若者に「思い出せ、我々は行動する人間だろう!」というようなことを繰り返し呼びかける喧しい人を、しばしば邪険に扱ってきた。というのも、彼らが実際にやっているのは計画を立てることだけであって、それは行動していることにはならないのである。行動するとは、民衆の両側の感情、何千もの人の感情を達人の技量によって動かすことである。行動するとは、思いをまとめ上げ、事態の進行を補助し早めることである。哲学者であり演説家でもあるジャン・ジョレス氏、彼こそ我々の信頼に足る人物である。

Le journal, 20 janvier, 1893.

Journal de ma vie exterieure, p.40 - 43

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