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コンテンツガイド1月号(テーマ:原風景) 「西洋音楽における歪んだ原風景としてのバッハ」灰街令

 バッハ(=BACH)は音楽史の中で特権的な位置を占めている。
 それはBACH=シ♭ラドシ♮をあらわすドイツ音名からなる、いわゆる「バッハ主題」がシューベルトやリスト、あるいは新ウィーン楽派一のモダニストであったアントン・ヴェーベルンや、多様式主義で知られるポストモダニストのアルフレッド・シュニトケにも用いられていることに象徴されている。
 BACH。西洋音楽にはこの半音階的音列が、各作曲家の時代を超えて刻まれている。そしてバッハはこのような不協和な半音階をきわめて複雑かつ構築的な書法で扱った作曲家だった。
 その例として彼が晩年に作曲した『音楽の捧げもの(1747)』や『フーガの技法(1742-1749)』が挙げられる。ひとつの旋律をモチーフとした何重ものカノンや、旋律の逆行系(旋律を後ろから読んだもの)、反行系(旋律の上行下行を鏡写しに反転させたもの)を構築的に重ね合わせながら調和を形成するそれらは構造美の極北といえる。
 そして、このような多声対位法による洗練された書法は遠く離れた1900年代の前衛音楽に引き継がれる。
 20世紀初頭、「新音楽」という言葉でロマン派以前の音楽との切断を図ったのは新ウィーン楽派であるが、それを高く評価した哲学者のアドルノは彼らが音楽を和声という垂直的同期のシステムから解放し、音を水平な多声の独立した重なりとして再び扱うという点にフォーカスしていた。
 あるいはヴェーベルンは『音楽の捧げもの』の中の《6声のリチェルカーレ》をオーケストラ版に編曲するほど、バッハを偏愛している。
 つまり、バッハ的な構造的秩序は後の前衛音楽にまで結びつき、理性的な構造が芸術的な高みを生み出し得るという信念を支えているのである。
 その意味において、バッハはきわめて「西洋的」な「理性」の原風景となる作曲家だ。

 しかし、西洋音楽の歴史において、バッハに対するこのような評価は、はじめから与えられていたわけではない。

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