論を読む、選挙演説に出くわす、知らない駅で降りる 伏見瞬の日記 7日目 6/23

 『群像』7月号の特集「論の遠近法」を少しずつ読んでいる。

 住本麻子「「取り乱し」の先、「出会い」がつくる条件 田中美津『いのちの女たちへ』論」を読んだ。先日あるイベントに客として伺った際に、テクスト論とジェンダー論の対立が話題になっていたのを思い出す。両者は対立しないという立場の私は、田中美津のテクスト読解からジェンダー論の方法と揺らぎを見る住本の論考に、頼もしく惹かれる。田中の文章において、「私」という主語がいつも遅れて登場する「わかりにくさ」に本稿は着目する。主語がはっきりしない「わかりにくさ」の中には、明確に固体化した主体意識とは違う、「取り乱し」を生きる「私」がいると。さらに、「わたしたち」という主語を用いずに「あなた」と「わたし」と分けて書くことが、違う人間の「出会い」を組織する意識を育んでいると。論はそこから田中と野坂昭如との共通点と相違点、内なる「バックラッシュ」との対峙へと進んでいく。外からの(特に男性からの)反応として認識されがちな「バックラッシュ」を、内からの心理運動として読み替える結部が気持ちいい。

 ここで唐突に、小津安二郎の映画『宗方姉妹』(1950年)を私は思い出す。田中絹代演じる姉・節子に対する高峰秀子演じる妹・満里子の振る舞いが、田中美津の書く「私」と呼応しているからだ。放蕩的な夫にかけられた呪いを正当化しようとする姉・節子の重苦しさに対し、そんなものはどうでもいいと突き放す妹・満里子は終始快活に動いている。妹が「~する満里子なのであった」と弁士風に語る場面、または姉のかつての恋人に煙草を差し出されたときに「彼は買収しようとした、彼女はそれを拒んだ」と煙草を投げる場面では発話の主語が後ろに置かれ、かつ「満里子」「彼女」と客観化されている。「取り乱し」ながら、内なる自身との距離も同時に表現している。固定カメラの静止と高峰秀子の動きの多さは対比的で、仕草も「取り乱し」を生きるかのよう。住本の描いた主題を具現化する存在のように、『宗方姉妹』における高峰秀子は動いていたはず。その姿を思い起こしながら、「取り乱す」私と、「バックラッシュ」する私との距離を考えている。「わたし」と「あなた」の分割は、「わたし」自身の中の分割でもあるだろう。

 上記の整理は論考も映画もいくぶんか単純化している。「わかりにくさ」を「わかりやすく」論じる矛盾は簡単には呑み込めないし、夫に殉じようとする姉を妹が受け入れる映画のラストも容易には肯定しがたいだろう。今のところ、矛盾は曖昧なまま残しておきたい。快活さに至れない苦々しい感触にも、私は惹かれていると思う。

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