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伏見瞬の何らかの連載(第4回)買って着た服批評①TAKAHIRO MIYASHITA The Soloist.のフーデッドシャツ

ナルシシズムが足りない

 ファッションについて言葉で語る試みは、年二回のファッションショーを起点にしたものが中心になっている。あるいは、大企業(例えばユニクロ、GAP)の労働状況や街中の人々の服装の変化から論を固める社会学的な方法か。本稿ではそうした手段は取らない。あくまで、自分自身が購入して、自分自分が纏って、自分自身がコーディネートを模索した服のみについて語っていく。その経験と感触から言葉を始める。
 ファッションショーを定期的にチェックしている人に比べたら、自分で好きな服を買って楽しむ行為は遙かに普遍的だ。にもかかわらず、そこから言葉を立ち上げた批評が少ない、というか皆無に等しい。何故か。自らの購入した服では、批評的距離が取りにくいからだ。自らが着る服を語る行為はナルシシズムに傾かざるを得ない。だが、ナルシシズムの何が問題だというのか。たしかに、生活と他者はあなたのあなたへ向かう愛を幾度も奪うだろう。ネメシスの正義はナルッキソスを殺す続けるだろう。他人を傷つけて罪悪感を抱えることも、他者から尊厳を傷つけられることも、自分自身に批判的になることも私たちの生には不可避であろう。そのことと、自己愛を育むことは何の矛盾も生まない。端的にいって、あなたに足りないのは、罪深さや反省心や他者の暴力と両立できる、鍛え抜かれたナルシシズムではないのか。自己の感性が、あらゆる他者との相互影響によって育まれる群生的なものなのは言うまでもない。ならば、ナルシシズムとはすなわち他者の肯定であり、つまるところそれは世界の肯定である。


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乾きと切断


 TAKAHIRO MIYASHITA The Solioist.(長いので以下Soloist.表記)の2021年Spring~Summerに発売されたフード付きシャツは、私を生意気な気分にさせる。この、背中と右腕と左胸に大きく穴が空いた、癖の効いた服を着こなす楽しい闘いの後で、最高の気分へと精神が向かう。
 かつてはNUMBER (N)INEの、今はSoloist.のデザイナーとして長年に渡り存在感を発揮してきた宮下貴裕。彼はファッションを「かっこいいヤツがさらにかっこよくなるためのもの」と言い放つ(※)。かっこよくないヤツをかっこよくするような慈善事業と、ファッションは関係ない。soloist.の服とは、「おれがかっこよくする前に、お前がそもそもかっこよくあれ」というメッセージである。これほど、ナルキッソスの生命力を鍛えるのに格好の場はない。

(※)こちらの酔い気味な宮下の発言を参照

 レーヨンと麻が混ざった、ベージュの乾いた素材には古きアメリカめいたヴィンテージ感がある。とはいえ、全体的にアメカジ風味は希薄。全体を眺めてみる。ブランド名「soloist.」と、「John Doe(s)」という文字が規則的に生地にシルバーでプリントされており、背中と左腕には銀箔が長方形に大きく貼られている。「Doe(s)」=「雌(達)」というのが今季のテーマで、メンズには「John」、レディースには「Jane」と刻まれているようだ。銀箔はそれぞれ、アルファベットで文字がくりぬかれていた。3カ所の大きく開いた穴は、黒テープで補強されている。テープもまっすぐではなく、一部幾何学的なブロック上のデザインが施されている。シルバーの文字プリント、銀箔、テープ、幾何学模様は、ポストパンクめいた虚無的な冷たさと繋がっており、生地のヴィンテージな印象を切断する。それはどこか、SF的な未来を連想させる。

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 胸ポケットは左右についているが、左側はちょうど穴が空いている箇所で、実用を為さない。この無駄なポケットの上に三カ所、細長い銀鋲がうたれている。鋲は、シャツの前側、生地の折り返し部分にも左右六個ずつ打たれている。折り返しと、左腕の生地の縫い糸は赤で、(右腕は切断されたままなので縫われていない)モノトーンの中で強い印象を残す。このように、服の至る所に、加工の跡が見つかるだろう。

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 裏地の縫い目は透明テープで補強されている。切断加工と多く打たれた鋲が布に負担をかけるから、補強しないと生地が持たないのだろう。この補強テープの光沢感は、シルバー文字の雰囲気と調和している。実用的な保護処理が、全体の未来的な感覚をより加速させているのだ。

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 フードの付け根には広めの襟がぬいつけられていて、首回りは複層的だ。シャツのモードなイメージと、フードのカジュアルな感触が共存しており、両義的な重みが生まれている。この重厚な気配が本作の肝だ。複数の加工も、重厚さを生む要因だろう。視覚的には重たく、まるでアウタージャケットのように映るが、実際に着てみるとシャツ生地が軽い。視覚と触覚のズレが、着る者が感じる内面と外界のズレと重なる。疎外感にも通じるズレを、冷たいエレガンスへと転化させているからこそ、この服を着こなす者は生意気な自尊心を味わえる。
 重さと軽さ。過去と未来。モードとカジュアル。アメリカン・ヴィンテージとイギリスのポストパンク。対照性の裂け目で、服は紋切り型のレッテルに汚されない、力強さを獲得する。

みっともなさの裂け目から


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 写真の私は、ユニクロの襟なしレーヨンシャツ(レディース)と、ユリウスのスカートパンツで合わせている。かつてNUMBER (N)INEとSoloist.は男性的な美学に拠っていたが、ここ最近は両性的な美意識に向かっているようだ。「doe(s)」、雌(達)というタイトルも、女性モデルだけで統一したコレクションも両性意識を物語っている。この服も、身丈と袖がゆったりしていて、女性的な印象が強い。レディースシャツやスカートパンツと相性が良いのも、必定と言うべきだろう。
 私はこのSoloist.のシャツを着ながら、2014年12月に観た青山真治演出の『ワーニャ伯父さん』を思い出していた。ステージには銀色の大きな物体が広がり、未来のオーラを演じるが、チェーホフの戯曲は100年前のものだ。そして、全員が疎外されているかのように、誰も舞台上で目を合わせない。過去と未来の裂け目で、現在の虚無感を切り取る上演。現状の苦痛と不安を、魅惑的な目眩へと変えるその上演の時間に、とても惹かれたのを記憶している。『ワーニャおじさん』の主人公ワーニャはあらゆる希望を失った47歳の中年男で、もう一人の主人公といっていい姪のソーニャは、器量が良くないことへの劣等感を覚えながら、先の見えない日々を耐え忍ぼうとした。彼らの姿はみっともなく、哀しい。そのみっともなさの裂け目から、次の今が見えていた。

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 Soloist.も、未来と過去の間で窮屈に悶える現在を、魅惑的な目眩に変えてみろと誘惑する。その誘惑に乗って、服と格闘した後では、湧き上がる感情は別のなにかに変化しているだろう。左腕の、銀箔に切り抜かれた文字には「farewell, dystopia・・・」と書かれている。fare(暮らす)+well(上手く)。dys(悪い)+topia(場所)。悪い場所に対して、この服は「達者で暮らせよ」と古めかしい挨拶を送る。ディストピアなんて、古い知り合いみたいなものだ。大したことない。幾重にも手間とアイディアをかけて作られた服に、着る者が自らの感性をかけて挑むとき、灰色の醜く無様な世界は、灰色のままで美しくなる。あんたの世界はどうか知らんが、私の世界は美しくなる。

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