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note版『継続のためのトレイントーク (共喰い的制作考)』販売開始(伏見瞬&河野咲子)

2023年11月11日文学フリマ東京にて頒布し、好評につき短時間での売り切れとなった新作小冊子『継続のためのトレイントーク (共喰い的制作考)』note版を本記事にて販売します。

言葉をめぐる昨今の状況を振り返りながら、「共につくる/書く」ことの可能性について検討する(擬似)対談。
コロナ禍、エッセイ流行、過熱する文学フリマ、フロー化するコンテンツ。めまぐるしく変化する環境下で、わたしたちはどのように群れをつくり、自らの執筆/制作をつづけることができるか?

以下、冒頭無料公開部分に加え、それに続く有料部分(400円)あわせて約2万字の全文をお読みいただけます。



継続のためのトレイントーク (共喰い的制作考)

ロカスト編集部 伏見瞬 & 河野咲子

2018年11月以降、Vol.01の千葉内房特集から、西東京、岐阜、長崎、北海道、そしてVol.06の福島特集まで、およそ年1冊のペースで旅の批評誌『LOCUST』新刊を制作していたロカスト編集部。2022年11月のVol.06の刊行後『LOCUST』本誌は休刊となり、オンラインプラットフォーム(note)にて配信していた『LOCUST+』も2023年6月に廃刊した。とはいえ、『LOCUST』を刊行しないにもかかわらず、ロカスト編集部は解散しない方向がひとまずのところ決まっている。
本をつくるのとは別の仕方で、ともに思考し制作をつづけることはいかにして可能か?
本文書は、ロカスト編集長・伏見瞬および編集部員・河野咲子が、2023年9月末から11月初旬にかけて、朝晩電車に揺られつつGoogle Docsに交互に発話を書き込むことで制作された擬似的な対話篇である。

C O N T E N T S
1.「個人的なこと」の価値のインフレーション、あるいはエッセイの流行について
2.「note」の媒体特性を考える①:複数的に書くことはいかにして可能か
3.「note」の媒体特性を考える②:テキストのフロー中心主義
4. アーカイブと集団制作の方法論:GitHubあるいはGoogle Docsの使い方
5. アーカイブの作業を欲望/制作する
6. 教育もまた制作/上演の方法である
7.(上演の定義としての)暴力性とともに活動できるか
8. 継続の実験/トレーニング、あるいはロカストの今後について


1.「個人的なこと」の価値のインフレーション、あるいはエッセイの流行について

河野 『LOCUST』休刊および『LOCUST+』廃刊の理由は複合的ですけれども、手始めに、ロカスト編集部の外部の状況と照らして考えてみるのがよいかもしれません。
読者の方はご存知の通り、『LOCUST』は「旅行誌に擬態した批評誌」をコンセプトとしたオールカラー批評同人誌。これに対して、『LOCUST+』では、よりライトな文章や対談音声をnoteのサブスクリプション機能(マガジン)を使って有料配信していました。
いずれも一旦やめるということで、雑誌の発行やnote記事配信という制作の方法がいまどういう状況にさらされているのか、改めて考えてみたいと思います。
伏見 まず雑誌作りに関して言うと、「本に比べてネットは軽い」みたいなかつてあった状況が逆転して、今はネットの文章自体が重くなっているのかもしれないと思っています。この状況は、従来『LOCUST』が持っていた批評性を低減させてしまう可能性がある。
河野 というと、どういうことでしょう?
伏見 個人的なことに重みがともなうようになってきているんだと思います。「重み」というのは、おそらく「社会性」のようなものだと思いますけど。複数の共同体を包含する大きな共同体(=社会)にとって価値のあるものであることが、個人的な体験を綴るのにも前提になっている。「個人的なリアルで生々しい体験」が、否応なく商品価値を帯びてしまう、と言ってもいい。
河野 ああ、なるほど……それで、「旅行(=個人的な体験) のことを批評 (=より開かれたもの) にする」というロカスト本誌の戦略だったはずのものが、むしろベタ化しちゃったということですね。
伏見 この前の第6回かぶふら[*]で言及したエッセイ流行の話題とも重なるのですが、個人的なことと社会的なことの間に距離がない。
* 批評家の伏見瞬および西村紗知によるトークイベント「歌舞伎町のフランクフルト学派」のこと。
河野 『文學界』2023年9月号「エッセイが読みたい」特集を受けての話題でしたよね。あのときのかぶふらゲストだった山本浩貴(いぬのせなか座)さんが、「エッセイの流行とは虚構の地位低下である」ということを仰っていて、わたしは大いに納得するとともに、納得しすぎてしょんぼりしてしまいました。
エッセイの流行には、「書き手が個人的に経験したことらしい」という素朴なリアリティが価値あるものとして人気を博しているという側面がある。
伏見 雑誌を出す、noteに発表する、という行為では、個人と社会の間の適切な距離を作ることができない。ロカストにおける「書き手がほんとうに旅行に行ったらしい」という虚構性と結託したリアリティの戦略は、いまではエッセイのそれと重なってしまっている。noteについても、書き手個人が個人的に発信できるという設計思想が当初は新しかったかもしれない。けれどいまは、むしろいかに「個人的である」という商品価値から離れたところで、たとえば多声的に・複層的に・客観的に書けるかの方が問われる状況になってきている。
河野 そういえば、最近は「本を作り手から直接買う」という個人的な購買行為の価値もあまりにインフレしていないか、と思います。文フリもそうですが、版元から直接本を買うことのできる神保町ブックフェアも、ものすごい盛り上がりを見せている。書籍のマーケット自体は小さくなっているのに、即売会的なイベントは盛り上がる一方です。書物が従来持っていた、読み手に対する「他人行儀」性、距離感、ありていにいえば書物の神秘性のようなものを復権するべきなのかもしれない。ほんとうは、いまここであなたが作者/版元から本を買った、という瞬間的な行為よりも、もっと深くて長い時間をテキストというものは持っているはずだから。
伏見 出版社の外側で雑誌をつくって販売するということがオルタナティブと言える状況ではなくなってきているなかで、ロカストの活動としてどういう方向に向かえばいいのか。自分としては、以前河野さんと話した、体験と書くことの間の時間差を「フィクション」として考えることについては面白さを感じてるんですよね。
河野 Vol.06福島特集発刊の際に、Twitterのspace機能で音声配信をして、そのとき「桃の時間とりんごの時間」という話をしたんですよね。りんごの時間とは、永久と現在に立脚した、非=時間的で普遍性のある文章の筆致。これに対して桃の時間とは、「書かれたことの時間が執筆の時間よりもつねに先んじている」ことが前景化する文章の筆致のことでした(なぜ桃とりんごなのかは、ここでは長くなるので触れないでおきます……福島特集にわたしが書いた金井美恵子論に関係していることなんですけれども)。
伏見 詳しく知りたい方は『LOCUST Vol.6』を買って読んでいただくということで! その分類でいうと「桃」的な筆致のなかにある時間差の面白さを活かす方法やフォーマットを考えたい。
河野 エッセイに関しても、語りの形式(つまり語りの内外の時間に関する検討)に関する検討がなされるべきだと思います。歴史的に、ジャンル(流通)的に、あるいは内容的に位置づけることもできるけれど、文体=レトリックの分析がまずはシンプルに可能であるはずだと。
エッセイは、良くも悪くも「桃の時間」をはらんだ文章です。「語りの時間」と、「物語の時間」を乖離させることでしか、エッセイのレトリックは成立しない。なぜなら、「書かれている内容を経験したひととこの文章を書いたひとはどうやら同一人物のようだ」という認識の成立のためには、書かれている内容と書いたタイミングの差分の前景化が前提となるからです。エッセイの文体は、19世紀的な(例えばワトソン博士がホームズの事件について読者諸君に語りかけるような)クラシカルな「回想」の物語の形式を(その後、時間や虚構の扱い方が多様化・高度化していった小説のレトリックとは異なり)いまもなお守り続けているとも言えます。
伏見 エッセイは現在から過去を振り返って現在を捉え直す、いわゆる「行きて帰りし」のフォーマットを取るわけで、その点でも古典的・類型的ですよね。そして、振り返る形式は、「喪」の作業に適している。少なくとも、失われた時間との接触を含んでいる。
旅行記、紀行文という形式は、上記のエッセイの特徴をすべて踏まえています。となるとロカストは、本質的に「エッセイ集」にならざるをえない。
今、エッセイを販売しようとすると、社会化せざるを得ない気がしています。
河野 文章のなかの時間差のポジティブな利用法というのはあるはずなんですけど、単に旅行誌として打ち出すだけではそこに切り込めないんですよね。
もともとロカストには、土地の専門家でもない書き手が、旅行をいいわけにしてその土地をネタにしようと「襲いかかる」不気味さ・居直り・悪質さがあったわけですが、エッセイが流行しているいま、「襲いかかる」こと、すなわち現実をネタとして消費することがべつに不気味でもなんでもない普通のファッションになって、当事者性やアクチュアリティのようなものとして、真逆の方向で評価されてしまっている。
でも、他人の生は切り売りしてはいけないのに、自分の生を切り売りすると当事者性として素朴に評価されるということに、わたしは常々疑問を抱いています(当事者性が悪いということではもちろんない)。エッセイだけでなく、小説にも言えることだけど。それって、作家の自傷行為をありがたがるようなものではないでしょうか? あるいは自他の区別って、そこまで截然とつけられるものでしょうか。
伏見 ロカストの「襲いかかる」コンセプトは、集団で書くことによって、答えが集約されないまま、「謎」を提示することに重きがありました (と、渋革まろんがロカスト始めた頃に言ってた) 。その複数性、他者と自己が混ぜこぜになったまま文章に出てくる、という性質をロカストは目指していた。
今、当事者のリアルが売り物として市場価値をもっているとするなら、複数性をより深めていく方向のほうが、自分たちがやることとしては面白いかもしれない。
河野 「桃」の時間の活かしかたも、ポイントのひとつは複数性にあるのだという気がしてきました。「過去を振り返る」レトリックにおいては、過去のわたしと現在のわたしが、複層的な時間のなかで分裂している。いまのわたしとは違う、他者としてのわたし(たち)と対話することができる。

2.「note」の媒体特性を考える①:複数的に書くことはいかにして可能か

伏見 noteをロカストがやめたのも、複数性を出しにくいからというのはあったと思います。個人の体験を売り出す、というのがnoteのコンセプトにある。そして、個人のプラットフォームとして始まったnoteに、様々な出版社が乗り込んでいる。正に個人の言葉が商業コンテンツに直結している状態です。
河野 noteはいまのところ、個人がテキストを収益化するのがもっとも簡単にできる日本語ツールであることは間違いなさそうです。
単一の記事を有料化することはだれでもできますし、より収入の安定するサブスクリプション形式での有料化は月額500円のnoteへの支払いにより可能です(サブスクが少しでも続いていれば一応補填できる程度の(たぶん)良心的な価格だと思います)。利用者は、ウェブサイト上でクレカ支払いによって記事購入やサブスク登録が可能で、作家を気軽に支援することができる。
それでも、ものを書くひとや編集するひとはもっと細緻にnoteの設計思想を咀嚼したほうがよいと、わたしはかなり真剣に考えています。
伏見 私たちロカストも、労力と時間をかけた文章に収益がほしいということで、noteを利用し始めた。
河野 実際、ロカストの活動を続ける上で、noteからの収入は非常に心強いものでした。
伏見 しかし、続ける中でnoteの設計に居心地悪さを感じだした。葛藤とモヤモヤが常につきまとっていましたね。

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