サビアンシンボルでアカシックリーディングする(52)20220118

サビアンシンボルでアカシックリーディングする(52)

2022年1月11日から書き始め

いて座28度から、うお座28度まで。28度についての最後のテキスト。28度はわりにショッキングと思う。というのも、新しい世界に入るのだから、それは古い世界に対して決別しなくてはならない。この決別ということに対して、おそらく世間に住んでいる人は、ほとんど理解できていない。

川と橋のどちらが重要か

 いて座28度An old bridge over a beautiful stream.[美しい流れにかけられた古い橋]は、次のやぎ座に入る体制を作る度数だ。となると、この橋というシンボルは、いて座からやぎ座に渡された橋ということを想像するのが一番自然だ。
 すると美しい流れはなんだろうか。わざわざ美しいという言い方がひっかかるし、川は美しく、橋は古いとなると、川に注意を向けてくれと書いているのか。
 以前は、このサビアンシンボルを、いて座の中で伝統的に続くもので、そのままやぎ座に持ち込んでも通用するようなものを示すと説明した。たとえば宗教は、いて座の象意だが、やぎ座では、これが寺院とか、神社として、長らく定着している。先祖供養などはやぎ座に入ってからの思想であり、もともといて座の段階での仏教などには先祖供養とか、墓を作るという考えはなかった。やぎ座になった場合には、場所性が出てくるので、どこでも通用する宗教という思想でなく、どこそこのお寺というふうになってくる。このいて座からやぎ座に続く連続的な通路を古い橋だと説明したのだ。でもこれだと28度の引っ越しというイメージはちょっと弱まってしまい、これまでの継続というふうにもとられる。

 そもそも、象徴的な、つまり夢の体験などの中で、川の流れがあり、そこに橋がかけられていると、これは異なる次元を繋ぐ通路だ。場所は移動するが、続いている橋は、自我の継続とも言える。異なる次元に行くが、自分は維持されている。橋がない場合、自我は分断される。
 しかしここでも橋ということより、川の流れに目をつけたくなる。水の流れは、異なる世界との間の断層、溝であり、すべてを押し流してしまう。あるいはこれまでの世界の要素を押し流す。Kazさんの夢では、ゴーという水を音を聞いて、これを瀬織津姫と関係するものだと判断していたが、瀬織津姫は、そのままわたしはアルクトゥルスと結び付ける。それは銀河全体を満たしているスープだと、リサ・ロイヤルは言ったが、スープの中の具が、銀河種族。これもまたスープとは、銀河種族を溶かして形をなくしたものだと解釈できる。瀬織津姫にしても、アルクトゥルスにしても、形を溶解する性質で、川に落ちると、生命の形は失われる。川の流れは、橋に対して90度で、このすべての形をなくしてしまう流れに対して、橋は、そこを渡りながらも、ずっと生命の形を保つものだということになる。

橋姫

 でも、異なる次元に移動するときに、同じ形ということはまずありえない。自我の継続があっても、この自我のありかたは変容を迫られる。ひとつの世界に住んでいる人は、この世界の原理と一体化している。世界から独立して、単独の自分がいるということにはならない。異なる世界、次元に行くというのは、この異なる世界にふさわしい形になることだ。なので、橋を渡っている間に、命の形が変化していくのは間違いない。
 橋の上の鬼という題材は、昔からよく出てくる話だが、これを変化に抵抗する心、あるいは反対に、変化を促すために迫って来る者という反対の解釈ができる。これは橋を移動する人の視点が、橋を渡った後の世界を期待している場合と、残された過去の場所から見ている側になった時など、見た場所によって鬼の性質は違うと考えればいいのだ。
 wikipediaでは、橋姫については、「主に古くからある大きな橋では、橋姫が外敵の侵入を防ぐ橋の守護神として祀られている[1]。古くは水神信仰の一つとされ、橋の袂に男女二神を祀ったことが始まりともいわれている[2]。
橋姫は嫉妬深い神ともいわれ、橋姫の祀られた橋の上で他の橋を褒めたり、または女の嫉妬をテーマとした『葵の上』や『野宮』などの謡曲をうたうと、必ず恐ろしい目に遭うという[2]。これは、土地の神は一般にほかの土地の噂を嫌うという性格や、土地の信者の競争心などが、橋姫が女性であるために嫉妬深いという説に転化したもの[2]、もしくは「愛らしい」を意味する古語の「愛(は)し」が「橋」に通じ、愛人のことを「愛し姫(はしひめ)」といったことに由来する[1]、などの説がある。」と書かれている。
 この中で、「土地の神は一般にほかの土地の噂を嫌う」というのが興味深い。つまり、橋をわたる前の土地の神は、橋をわたった後の土地の神とやはり仲が良くないのだ。土地の神を、ゲニウス・ロキとか、地霊と見た時、各々管轄があり、それらは互いに協力的ではない。というのも、これはやぎ座、土星の性質と同じで、特定のローカルな場所を大切にすることは、自然的に、ほかを排斥することに通じるからだ。この境界越えをする橋では、当然苦しい体験もするだろうし、亀裂とか、断層ができている。にもかかわらず、橋は繋いでおり、自我の継続があるので、なんとなく自分の一部が失われたり壊れたりしつつ、本質的な自分はかろうじて保たれているということになる。本質と質量性というふうに分けたならば、本質は変わらず、質量性が変化する。

橋の上では精神がひずむ

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