冥想と夢見(15)20220828

冥想と夢見(15)

2022年8月20日から書き始める。

社会内自己実現

催眠とか自己催眠というタイトルで、youtube番組を検索すると、夢の地図を書くとか、ノートに目標を書くと、それは達成するというような神田昌典式の内容が出てくる。しかしこの目標とか願いの内容を見ると、だいたいマズローの言う自己実現、すなわち社会の中にすでに存在するワードを達成することであることが多く、だいたい手が届く範囲にあり、わたしはこれを自己実現とか、願いの達成と解釈しなかった。夢を獲得するというよりは、社会の中のひとつの山に、自分を埋め込むと考えたほうがいい。夢を獲得するのでなく、夢に獲得されるのだ。自分は変わらない、ここにいると思う人は、願望は達成しないが、自分の自尊心を捨てて、この宝の山のほうに自分を移動させると、そのイメージに自分を染めることができるのではないか。誰でも今の自分を維持しようとすると思うので、願望実現するには、捨て身でかからなくてはならない。でも、達成した結果は、ごくありきたりのものなのだ。
 わたしが社会の中にある既知の項目の達成を自己実現と解釈しないというのは、わたしがいう実現とは、この社会の価値観の枠からはみ出しているからに過ぎない。社会の中で生きる「柵の中の羊」の集団は、安全装置がついていて、もっとはみ出したものを達成しようというヴィジョンを持つ人を柵の外に追い出すことを無意識にしてしまう。この行為は、ヨナコンプレックスによるもので、ヨナコンプレックスは、そもそも異物的な要素を排して、社会の平均的な生き方の波風立たないところに落ち着けるようにする心の働きだ。
 ヨナコンプレックスがある限り、社会の中にあるほどほどの願望のみ達成できる。それは給料が50万円の人が、100万円になるというような種類のもので、審査会があって、ここまでなら許してもいいと決定したのだ。

以前、神田昌典氏のチーム(神田組と言われる)で話をしていた時に、神田氏がわたしのことを「成功者」と言っていて、わたしはそれは違うと思っていた。たぶん神田氏の思う成功という範囲があり、それは達成していたかもしれないが、わたしからすると、わたしはまったく成功者でも、達成者でもなかった。つまり目標が、常識外れということで、自動安全装置が働いている社会の中では、これは理屈として永遠に達成するはずのないものだ。
 願望は手に入れるものでなく、そのイメージの山に自分を埋め込むことだという点では、わたしが願望を達成すれば、自動的に社会の輪からはずれる。その山は社会の柵の外にあるものなので。神田氏には葛藤があって、社会内で成功するという枠と、そこを超越したものは、社会に対しては受け入れられないために、むしろ社会的に成功するのに邪魔となる、そういう要素も自分は持っているが、それを封印するということだ。すると、神田氏のところに集まる人たちは、みな同じタイプになり、それはわたしには「ちゃんと意識的に考えていない人」に見える。
 自分が達成したいヴィジョンがあり、それには手が届いていないと思っていたので、わたしは成功者ではなかった。しかし、夢を実現するために、ノートに夢を(過去形で)書く時、それはもう言葉になっているものであり、言葉になっているものを実現することは、夢をかなえるとは言わない。夢は言葉にできないものだ。達成してはじめて自分が何を目指していたのかやっとわかるというのは、グルジェフだけでなく、多くの人が言うことだ。

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