徒然なるままに:幾を知る
幾を知るはそれ神か。(繋辞下伝)
事件・出来事が起こってしまってから慌てふためき、ドタバタと対処奔走するのが世の常です。
人間らしさ・・・と言ってしまえば、その通りなのですが、過ぎ去った過去に翻弄されながら不安と恐怖と卑下の海に沈んでいく人間の愚かさでもあります。
事件・出来事が起こる時、天地自然に何らかの鳴動が現れます。
第六感、胸騒ぎ、予感や予兆を感じ取れたから身構えることができた・・・そんな経験が増えてきたら、過去にも未来にも惑わされないで「今ここ」に立てた証です。
でも、まだ神の領域ではありません。
私は神だ! と宣うのも、また人間らしさなのですが。
空と無の世界から空性へ、光明へ、涅槃へと内なる宇宙が拡がっていくと、やがて因果が果因となって具現化するようになります。
原因も発起もない空っぽのままの事件・出来事が突如として現れてしまいます。
でも、その出来事・事件を招いた原因も発起もまだ現れていません。
まだ現れていないものは簡単に無に帰せます。
改めて無我の一歩一息を歩むことで、まだ現れていない原因や発起は無に消えてしまいます。
因が無になれば、果も無です。
何も起こらず、何も無かっただけになります。
「幾を知る」とは、因果を越えて果因の境地に至ることだ、と私は思いました。
それは、もはや神の領域ではありません。
神が内に秘めたる我欲とエゴを楽しんでいる限り、神は「幾を知る」ことはできません。
神はそんな「幾」を知ろうとはされません。我欲とエゴが消えれば、もう神を楽しむことができないことを知っておられるからです。
もっと楽しみたい・・・そんな神でも、やがて我欲とエゴが満たされる時を迎えます。
神が「幾を知る」時がやって来たのです。
神は神衣を脱がれます・・・神衣を脱がれた神の姿は、私の目には龍神に見えました。
龍神は幾を知っています。
因果も果因も超越したまま、
空を、空性を、光明を、涅槃を自由自在に悠々と泳いでいます。
そんな徒然話を近著「地蔵医学」(三和書籍)に書きました。
(10月中に出版予定です)
この世のどこかに あぁそうだったんだ と頷いていただける人がいればいいなぁ・・・楽しみにしています。
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