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ある老僧の過去生

拙著「龍神覚醒術」から

4)ヒマラヤ山村の仏舎利塔を預かる老僧の過去生
 ヒマラヤの山奥深く、旅人もめったに訪れないひなびた山村で、人の背丈ほどの小さな仏舎利塔をひとりで預かって暮らしている老僧の人生です。額には深いシワが幾重にも波打っており、老僧の人生が波瀾万丈であったことがうかがえます。月が明るい夜には、老僧の額に大きな目玉が現れることは、もう村人の誰もが知っていました。
 ボロボロの僧衣を祈祷旗タルチョーのように風にはためかせながら、村を見下ろす峠にポツンと建っている仏舎利塔にもたれて一日中、老僧は何やら呟いています。
 放牧へ向かう村人は、必ずこの老僧のために何がしかの食料と水を持って出かけますし、帰ってきた村人は絞りたての乳を今日一日の無事を感謝しながら老僧に与えます。
 老僧は成就者だという村人もおれば、ただの乞食坊主だと笑い飛ばす村人もいますが、不思議なことに誰ひとり老僧を蔑む村人はいませんでした。
 虹が出ると、老僧はとても悲しげな歌を唄います。それは誰かを弔うような、何かを懐かしむような異国言葉の挽歌のようにも聞こえますが、村人のだれもその歌の意味はわかりませんでした。
放牧の帰り道にこの歌を聞いた村人が老僧に歌の意味を尋ねると、
「多くの者たちが、あまりに多くの者たちが虹となったのよぉ。子どもも女たちも、みーんな虹になってしもうた。大きな大きな町に虹が架かって・・・誰もいなくなってしもうたのよぉ。昔わなぁ、今の三倍は人がおったのじゃよぉ。この世界中、人だらけじゃった。羊と山羊の数よりもっともっとたくさんの人がおったんじゃよぉ」と、老僧は天空を翔る虹に涙を流しながら言いました。
「わしが供養してやらんと、虹の向こうに消えた者たちがこの世をさまようでのぉ。虹の向こうの世界は極楽じゃよぞ、こちらへさまよい出るんじゃないぜよぞ、と唱えてやってるんじゃ。それが老いさらばえても尚生き残ったこの爺の最後のお役目じゃよぞ」
 そんな瘋狂聖の爺さんでしたが、なぜか村の娘たちはこころを許していました。親にも言えない打ち明け話をすることもあれば、人の心の機微を教えてもらうこともありました。時には爺に占いを立ててもらう娘もいました。
 娘たちは爺の昔話を聞きながら笑ったり泣いたりするのが大好きでした。やがて爺の昔話がタルチョーのようにひと続きになってきた時、娘たちは自分たちが何者で、何を成すために生まれてきたのかをしっかりと自覚できるようになっていました。
「お爺さんはどこから来たの?」
 おさげに結った黒髪がかわいい娘が爺の膝に乗りながら尋ねました。
「昔々のことじゃよ。わしは大きな町に暮らしておったんじゃ。そこは何でも欲しいものは手に入る町じゃった。店先には色とりどりな食べ物があふれかえっておったんじゃ。この世のありとあらゆる食べ物がお金さえあれば食べられた町じゃった。食べ物だけじゃないぞ。着るものもあふれかえっておったからの、使っては捨て、また新しいものを買ってきて、すぐに捨ててしまう暮らしをしておったんじゃ。あの山ほど高い住まいに住んで、車や飛行機というものに乗って、世界中のどこにでも行けたんじゃ。何でも手に入る、どこにでも行けるのが豊かで幸せだとみんなが思っていた町じゃった」
「私もそんな町に行ってみたい」と、ほっぺたの赤い小さな女の子が言いました。
「いやいや、それはやめておいた方がいいじゃろうなぁ。その大きな町にあるものは、みんな人が作ったものばかりじゃったからの。大地の奥から吹き出す油から作ったものばかりでな。息はしにくいし、みんな身体やこころが病んでしまっていたからの。今のお前さんたちのように、こころで楽しくおしゃべりしたり、ものを動かしたり、花を咲かせたりも鶏に卵を産んでもらったりもできんかったからの。本当に何もできんかったからの」
 爺は遠くの空を見上げながら悲しげに呟きました。
(つづく)


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