見出し画像

徒然なるままに:覚醒

トンデモ医師の内海聡先生の記事から・・・

これらに翻弄されている人たちばかりではないでしょうか?

簡単に騙される、そして簡単に烏合の衆となり洗脳される。

この2年間で、どんどん簡単に・・・こんなものに騙されるの? と嘆かわしくなるような幼稚なネタにコロッと騙されて、誰かの意のままに動かされる大衆庶民たちを神さまたちと眺めていて、気づいたことがあります。

自分軸がない。

信仰心がない。

自分が信じられないから、他人も信じられない。

落ち葉のように風に流されるまま・・・

やがて吹きだまりで山となると、誰かがつけた火に燃え上がります。

昨夜の夢の修行で、仏陀さまが仰いました。

覚醒とは慈悲と慈愛だよ。

掌から金粉が出ても、空中浮遊できても、宇宙語が話せても、未来が予言できても・・・何に覚醒しているのだろうね。

覚醒するためには、まず食毒、香毒、電磁波毒、薬毒、愛の毒を排毒浄化することは必須だね。

覚醒したことに気づくには、五悪念と悪しきカルマたちも、我欲とエゴと煩悩も、解毒浄化しないとね。

善悪、正邪、優劣、支配従属、生老病死・・・すべてが桜の花びらのように舞い落ちて、花筏も良し、桜吹雪も良し、と無念無想無我でただ眺めながら、そんな中にも美を感じ、悦びを感じ、楽しみを感じ、どれもが感謝となった時、目が覚めているのだよ。二元性のこの世からも、現在刹那の思考からもね。

鳥たちが春を歌っているね。

言葉はわからないけれど、声は聞こえてくる。

鳥たち同志は何かを一生懸命に語り合っているけれど、

君たちには、春鳥のさえずりに過ぎないだろう。

そこに美、悦、楽を感じるのは簡単なのに、

そこで感謝と廻向を思い出すのは、そんなに難しいことなのかね。

慈悲も慈愛も、その中にいっぱい詰まっているのにね。

まず感じること、そして思い出すこと。それが覚醒だよ。

いさかいの原因は悪意ある第三者に存在する
「離間工作」という言葉自体は知人でもある、池田整司氏の著作「離間工作の罠」(ビジネス社)から言葉をお借りしたが、これは「第三者の原則」と呼んでもよい。これは人間関係の観察だけでなく、どのように情報を見ていけばよいのかということにも通じてくる。トラブルになったとき、長期的な問題が発生したときに思い出したい法則である。たとえば、人間関係において、あるいさかいが起こったとしよう。それが一時的であれば誰にでもあることかもしれないが、これが半永久的になったり非常にシビアな状況に陥ったとき、その原因は当事者同士に直接ないことがほとんどである。ここで働いているのが「離間工作の絶対法則」だ。
 たとえばAという当事者とBという当事者がケンカするときには、Aに対してBの悪口を、Bに対してAの悪口を吹き込んでいるCがいる。しかもCはAに対してもBに対しても非常に善人面する。きれいごとから入ってくるのは詐欺師の基本パターンだが、いまの人類にはそれを見抜くことができない。
世の中においても人間関係においても、騙されないためには詐欺師(=離間工作者)の特徴を知っておく必要がある。詐欺師は必ず裏で動くという特徴があり、まず表立って自分をさらけ出さない。そして詐欺師は必ず聞き心地がよいことを述べたり書いたりし、結論ありきで語るため、決して反対側の情報や価値観を提示したりしない。世の中で混乱が起こるとき、常に善人のふりをした第三者が対立する双方に介入し、内ゲバのようなものが起こるのが特徴なのである。
離間工作者は「心の絶対法則」をうまく使う
これは様々な「心の絶対法則」をうまく利用しているともとらえることができる。往々にしてAもBも自分を受け入れてほしい依存心理状態になっており、それを第三者(=離間工作者)はうまく利用して双方の対立を深めていく。「離間工作の原則」は人の依存心に乗じてくるのであり、この「依存の絶対法則」については第9章で述べている。
そうやって第三者自身の信用を高めていくわけだが、この第三者に騙されないためには、人を判断するときにはその人の言葉ではなく行動を見て、何をもたらしているかを観察することが基本となる。前半に述べた「現実を直視する」という話は、ここにもつながってくる。言葉だけでは一切人を判断してはいけない。これが現代人はまったくできなくなってしまった。できなくなってしまった一番の理由は、前にも述べたように、表面だけの暗記だけを重視する現代の学校教育にあると推測される。
<心の絶対法則より抜粋>
正邪にばかりこだわる人たち
さまざまな法則を見てきたが、すべての物事には特徴や性質というものはあっても、善悪や正邪などというものは存在しないことに気づく。これは「陰陽の絶対法則」に通じるところがある。
もともとこの世界にはなんの善悪も正邪も存在しておらず、すべては人間が自分たちの都合で作り出したものだ。それが「善悪不存の絶対法則」である。それなのに人間は正邪にばかりこだわり、自分を正義、相手を邪悪と決めつける。
善悪という言葉を使えば当たり前のように善と悪になってしまうが、陰陽という言葉を使えば陰が善で陽が悪だと語る人はいなくなる。「周波数の絶対法則」でも、どの周波数が善でどの周波数が悪などという、つまらない話は詐欺に過ぎないことは書いてきた。それぞれに特徴があるだけで、ある人にとっては相殺する周波数かもしれないが、ある人にとっては相殺しない周波数であろうし、相殺すること自体が善であるとも限らないのである。
善悪が存在しないことに気づけば、世の中の様々な言説も、みな詐欺であり悪であるかのように見えるというのは皮肉である。
身近なところで栄養学から見てみよう。たとえば油の成分である。栄養学をかじるとオメガ3,6,9などという知識を持ち出し、オメガ3が善でオメガ6が悪であるかのように語りだす人が多い。そもそも3が善で6が悪ということはない。3は炎症に対して抑制的に働き、6は炎症に対して促進的に働く特徴があるだけだ。炎症を悪と決めつける浅はかな者たちが、オメガ3を善に仕立て上げただけのことである。炎症を抑制する効果も促進的に働く効果もどちらも必要であり、専門的に言っても重要なのは比率であることがずっと述べられてきたはずだ。
酸化と還元も酸化が悪で還元が善なのではない。酸化は生体が自分を守るために絶対に必要なものである。アンチエイジングという言葉を善であるかのように用い、自然の摂理に逆らうグーミンたちが酸化を悪のように仕立ててきた。確かに私も治療の上で抗酸化という手法を使う。これは治療の必要がある人の酸化が著しいし、現代社会は酸化を促進する社会毒にあふれているからで、相殺するがために用いるだけのことである。
そもそも論を言えば治療するというのは本当に善なのか、ということを考えなければいけない。病気になるのはそれまでの行いの結果であり、病気になることこそ自然の摂理であり、善であるかもしれないのだ。
<心の絶対法則より抜粋>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?