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徒然なるままに:フォトン

トンデモ医師の内海聡先生の記事から・・・なるほど・・・

冷蔵庫に野菜を入れる
もはや冷蔵庫はどの家庭にもある必要不可欠な家電となりましたが、昔と比べてどんどん巨大化傾向にあります。
冷蔵庫の「野菜室」なんていう名称も一般化しているくらいですから、スーパーで買ってきた野菜はすべてこの野菜室に入れるという人も多いのではないでしょうか?
しかし、保存性や栄養面の両面で見ても、野菜はあまり冷蔵庫に入れないほうがいいのです。
「バイトフォトン」という言葉を聞いたことはあるでしょうか?
欧米ではかなり研究が進んでいる分野ですが、日本ではまだ馴染みのない言葉です。
バイトフォトンとは平たくいえば「光の粒子」で、もともとは30年代の生物学者アレクサンダー・ガーウィン氏が「細胞が光を発する」という仮説をもとに始まった研究です。
すべての生体は光を放ち、光を吸収し、そして光を溜めています。そしてすべての細胞は1秒に少なくとも10万回光を放っているとされ、健康な細胞は持続的に光を放ちますが、不具合のある細胞は断続的に光を発しているそうです。
「なぜ、こんなことを言っているのだろうか?」と思った方も多いでしょう。
実は、冷蔵庫で保管された野菜とそうでない野菜では、フォトンに顕著な違いがあるという研究結果があるのです。
野菜を収穫してから冷蔵庫に入れないで保管をした場合、9日後に細胞が振動しなくなります。
一方、冷蔵庫に保管した場合、たった1日で野菜から振動が消失するという研究結果が出ています。
これは農薬を使用した野菜とそうでない野菜でもフォトンに同じような結果が出ており、フォトンは自身を守るために、生体化学反応が起こるシステムをつくっていると考えられています。
長期保存しなくてはいけないほどの量をそもそも買わないことが大切ですが、食材の特性などを見ると、「吊るす」「新聞紙でくるむ」「冷暗所に置く」など、冷蔵庫で保存しないほうが保つものもいっぱいあります。
ここでも、昔ながらの保存の知恵を大事にしたいものです。
冷蔵庫で野菜を保存した際に「野菜を腐らせた」という経験をしたことのある人もいるでしょう。
よく考えてみてください。植物は「腐る」ものではなく、「枯れる」ものです。
では、なぜ自然界の植物は枯れるのに、スーパーで買ってきた野菜は枯れずに腐るのか?
これは肥料に関係するのです。
化学肥料か有機肥料かにかかわらず、自然栽培で育った野菜は冷蔵庫のなかでも枯れます。
肥料を与えられた野菜は冷蔵のなかでは腐るのです。
特に動物性の糞尿などを使った肥料を使えばより腐りやすく、植物性の場合は枯れやすくなります。
冷蔵庫で野菜をダメにしてしまうほど保存すること自体問題ではあるのですが、冷蔵庫の使用は最小限にとどめ、自然界での様子と同じく枯れていく野菜を選んでいただきたいです。
<あなたを殺す食事生かす食事より抜粋>

お日さまの光 特に朝日は生命力を、夕日は癒やしの力を与えてくれます。

森羅万象 生きとし生けるものたちは何らかの形で、お日さまの光のエネルギーで生かされています。

例え深海の生物であっても・・・食物連鎖とは生命の循環であり、お日さまの生命エネルギーの循環なのです。

人間にも、動物たちにも、植物たちにも、山や海や川、石ころにも、仏性が宿っています。

しかし今、仏性が魂から逃げ出してしまった人間が急増しています。

いまだに仮面:マスクを外せない人間は、内なる仏性を失ってしまった魔人です。

魔人はお日さまの光を必要としません。

魔人のエネルギー源は、燃えたぎる我欲とエゴと煩悩です。

五悪念悪業が放つ悪こそが魔人のフォトンです。

そんな魔人の手で産み出された野菜、果物、穀物、家畜肉や玉子からも、もはや仏性は逃げだし、魔人が注入した魔界のフォトンに染まっています。

それらはゾンビな食材であり、それらを食した生き物を魔毒で汚染していきます。

そして、お日さまの光による生命の連鎖を断ち切り、魔界へと引きずり込んでいきます。

人間も生き物たちにも、必ず死が訪れます。

すべての生きとし生けるものたちの死は、枯れるように訪れていました。

お日さまから頂いていた光の生命力は、死が近づくにつれて、まるで太陽の最後の姿のように膨張していきます。

この時、生き物たちたちは至福ホルモンに満たされます。

そして太陽が眩しく輝きを放って大爆発するように、生き物たちも死と同時に光の生命力を爆発させて・・・消えます。

この生命力の光の爆風に乗って、宿っていた仏性は涅槃へと戻っていきます。

人間が死を迎えた時、この光の爆風が弱ければ、その人生で積み重ねてきたカルマも、その人生に関わってきた三世にわたるカルマも、一気に破壊消滅させてしまうことができません。

意識は二元性に囚われたまま、亡霊や霊魂のように夢幻の霊界をさまようことになります。

末那識に溜まった悪念悪業も光の爆風で浄化消滅しきれず、魔界に堕ちるしかありません。

カルマの海である阿頼耶識も浄化消滅できず、涅槃に逃げ帰ろうとする仏性を六道輪廻の渦に引き込みます。

もし仏性が辛くも涅槃に逃げ込めても、浄化しきれなかった末那識と阿頼耶識が仏性の宿らない魂を生み出します。

それは無精卵のような魂です。

その無精卵の魂が前五識(五感)と意識を持つと・・・仏性の宿らない人間=本物の魔人が誕生します。

魔人には善念善業は皆無です。すべてが悪であり、悪こそが正義です。

内なる仏性がないので、善念は芽生えません。

善は見えませんし、感じ取れもしません。

もし魔人に善人が見えてしまうと、得体の知れない何か、おぞましい何かに見えます。瞬時に強い恐怖と怒り、そして憎しみが沸き起こって、反射的に攻撃してくるでしょう。

魔界のヒエラルキーで頂点を極めようとすれば、悪に徹しなければいけません。

元々魔人には、良心のかけらなどありません。そんなものを持っていたら、魔界ヒエラルキーの底辺を蠢くだけになってしまいます。

悪をどんどんクリエートしていく、極悪の創造主が魔界の頂点にたちます。

魔界と化した今のこの世の真の支配者とは・・・魔界ヒエラルキーの外から眺めていれば、自ずと真の支配者を理解し、次の一手も岡目八目で見えてくるでしょう。

さて、涅槃に逃げ込めず、浄化できなかった末那識と阿頼耶識に囚われた仏性は、新しい人生計画を涅槃ですることができません。

仕方なく古い人生計画のままに阿頼耶識でカルマたちを、未那識で悪念悪業たちを引き寄せて魂となり、古い人生計画のままに身体とこころを持って生まれてくることになります。

あるいは、もう無抵抗のまま阿頼耶識と生識でまとわりついてきたカルマと悪念悪業たちに包まれて魂となり、カルマと悪念悪業が生起した身体とこころを持って生まれてくることになります。

仏性は魂の中に宿っていますが、身心頭魂は分厚い悪念悪業で覆われています。

それがどんな人生になるのか?

どん底の環境に生まれることもあるでしょう。

王侯貴族に生まれることもあるでしょう。

人間界ではなく、畜生界や修羅界、時には天界や地獄界に生まれることもあるでしょう。

古い人生計画のまま生まれてくると、前と同じ人生を再びやり直している感覚に苛まれるかもしれません。

のしかかってくる悪念悪業に息苦しくなって、死を迎える前に内なる仏性が身心頭魂から逃げ出してしまうことも多いでしょう。

そんな中で極々稀に・・・宝クジの1等が当たるよりも稀? に、内なる仏性が大きく開花した人間が現れます。

仏性が目覚めた人間は、お日さまの生命エネルギーから卒業し始めます。

身心頭魂を浄化排毒している間は、まだお日さまの生命エネルギーは必要ですが、仏性が蕾をつけた頃には、もう食は要らなくなってきます。

そして仏性が大輪の花を咲かせると、お日さまの生命エネルギーから卒業して、慈愛と感謝のエネルギーだけで生きていくようになります。

その頃には、もう宇宙は暗黒ではなくなっています。

慈愛と感謝のエネルギーで満ちあふれた光の宇宙が見えます。

そこにはもう六道も輪廻転生もありません。
カルマも悪念悪業もありません。

消え失せたのではなく、元々から無だったのです。

時間も空間もありません。二元性がもたらしていた夢幻も無です。

数多の人間たちだけでなく、生きとし生けるものたちの中から
やっと一人の仏陀が目覚めた・・・でもありません。

自我がウロコのように次々と剥がれ落ちていくと、
この世の魔界も魔人たちも、数多の人間たちも、生きとし生けるものたちも
空に溶けて消えていきます。

やがて無我となれば、空性が見えてきます。

無我になればなるほど、空性がゆっくりと呼吸しているのが見えてきます。

やがて空性の呼吸が止まった瞬間、光明が見えます。

その刹那、すでに光明から空性を眺めています。

あれ? と思うと、空に溶けた数多の人間たちと生きとし生けるものたちも光明にいます。

魔界と魔人たちも無に帰した、その無も有も超越した原型である何か・・・
それは石ころのように見えるかもしれません。

そんな石ころが敷き詰められた小道が光明の中に見えてきます。

その道の先に涅槃が広がっていることでしょう。

お地蔵さまの会に参加されている方々には、もうおなじみの涅槃ですね。


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