見出し画像

重たい荷物を背負わされて生まれてきた

考えてみたら、私の人生、物凄く重たい荷物を最初から背負わされてきたような気がする

  • 父親が育児放棄

  • 兄の受験失敗のリベンジで私の進路決定

  • 母親の職業のこと

  • 祖母のこと

  • 兄の借金のこと

  • 母の最期を看取ったこと

・父親が育児放棄

 男って、ホント、バカなんだろうか
 私の父親は、私が母のお腹の中にいる頃から、家を出て、生活費を一切家に入れなかったそうだ
 そもそも、お寺の次男坊で東京の大学でちゃらちゃら遊んでいた父。当時大卒でも初任給は10万円ちょっとしかもらえないような時代に母は毎月30万円を稼ぐような人で、そんな母がなぜ父みたいなお坊ちゃんと結婚したのか意味不明。(これは何回も母に聞いたけど、結局は兄を妊娠してしまい、できちゃった結婚だったせい)
 父は大手ゼネコンに勤めていたが、北京に3年間転勤することを打診されて拒否(祖母が大反対したらしい)、会社を辞めて、自分で建設会社を設立した。もちろん、その資金は母が出した。
 母も父の会社で事務員として働いていたが、この会社が私が幼稚園の頃倒産し、父曰く、借金取りから逃げるために別居する必要があったと子供の頃の私に言い含めていた。
 そんなわけないじゃん。バカじゃないの?
 私がお腹の中にいたころからの愛人の家に逃げ込んだだけじゃん。
 当然のように生活費も養育費も一円も家に入れず。
 母は自分の貯金を切り崩し、なんとか私が小学校に上がるまでしのいで、そこからは水商売の仕事に戻って行った。

・兄の受験失敗のリベンジで私の進路決定

 8歳年上の兄は秀才ともてはやされていて、学校内でもかなり頭が良い人だった。当然、中学受験を進められ、「絶対に受かるよ」という太鼓判を押されていたにもかかわらず、受験失敗。
 翌年、私の小学校進学の際は、その中学の付属小学校への試験を私が受けさせられる。この学校は、幼稚園、小学校、中学校とほぼ同じ敷地内にある教育校で、私は幼稚園を受けて受かっていたのだ。だけど、幼い頃の私は隣に住む一切年上の幼馴染と同じ幼稚園に通いたいばかりに入学を蹴り、母としてはなんとしてもこの学校に入れようと決意していたらしい。
 何故なら、父方の親戚から母の学歴(中卒)をネタにかなりいびられており、父方の親戚からはこの学校に入学した子供が一人もいなかったために、「絶対に自分の子供を入学させて見返してやる」と意気込んでいたそうだ。
 私は幼稚園への入園を拒否、兄は中学受験で失敗、そうなると俄然私の小学校受験に力が入ってしまう。そして、その小学校は中学へはエスカレーター式のため、入ってしまえばその後は安泰なのだ。
 勿論、小学校に受かりましたし、「今度ばかりは絶対に行ってもらう」と母に断言されたため、渋々その小学校へ進学した。
 母は鼻高々だったでしょう。
 ちょっと母の執念を感じる。自分の中卒をバカにされたために、子供たちへの教育は徹底的にやると誓い、私や兄は恐ろしいほどのお稽古事を毎日組み込まれていた。週2回のそろばん教室、週1回の書道、ピアノ、英会話、水泳、体操教室。
 結局私が身についているのは水泳だけで、英語は少々程度。ピアノは大嫌いで(兄と常に比べられていたから)、書道も字が汚いまま。そろばん教室の影響かどうかは判らないけど、数学は得意だったという程度。
 私がやりたいと言ったお稽古事は全部却下されたけどね…。

・母の職業のこと

 母が父と結婚する前までは、いわゆるパーティ会場にコンパニオンを派遣するあっせん業をやっていたそうだ。当時は高度成長期で大手企業などのパーティではそういう方を配置して、盛り上げていたんだろう。
 そんなわけで母は大卒の父よりも収入が高かったし、なんだったら結婚する理由もなかったはずなのに、大手ゼネコンに勤めていた父と結婚。しかも、父方からは大反対されたそうだ。
 まぁ、そりゃそうだろう。父の実家というのは、地域では割と大きなお寺だったのだ。(その土地の大名家の名字を頂いているため、結構な家柄だということは判るけど、詳しいことは知らない)中卒でコンパニオンの派遣などという水商売の女(敢えて祖母の言い方をそのまま真似るとそうなる)と結婚しなくても、両家の子女をお嫁に迎えた方がいい!というのが祖母の言い分。
 父は次男坊で、我儘で、地方都市のおぼっちゃまで、我儘を言って明治大学に入学し、大学4年間は派手に遊んでいたそうだ。地元に戻ってきて、見合いも沢山してきたのに、なんで母と結婚する気になったのか…。
 そういうわけで、父方の親戚からは母や私や兄は毛虫のような扱いを受け、母が父の借金を返していたにも関わらず、母が金食い虫だとののしられていた。
 祖母は母にお金を要求し、母は祖母からの電話があるたびに泣いていたので、ある日祖母から電話がかかってきた時、私が出て、「お母さんをいじめるな、電話かけてくるな、くそばばぁ」と言って電話を切ったそうだ。
(あんまり憶えてないけど)
 カンカンに怒った祖母は電話をかけなおし、母を怒鳴りつけた。「あんたは一体子供にどういう教育をしてるんだ!」
 母は泣きながら笑い、私のことを抱きしめた。私は母を守ってあげられなかった非力な自分が悔しくて、母と一緒に泣いた。

 私が小学校に上がるころ、いよいよ家の貯金が尽き、母はホステスになった。まだ日が高いうちに夕食を作って、お風呂を沸かして入り、夕方から厚化粧をして、同級生が部活から帰る中を派手な服を着た母が電車に乗って出勤する。
 私は恥ずかしくて、顔を上げられなかった。口には出したことがないけど、私が母の仕事を嫌悪していることは、母には伝わっていただろう。
 養われている身だし、学歴のない母が一切の生活費も渡されていない状況で教育費にお金がかかる子供たち二人を抱えて育てていくには、それしか方法がなかったのだと、頭では理解できるけど、それでも母の職業を誇りに思ったことは一度もない。今でも、嫌いだ。
 そして、水商売自体が凄く苦手だ。トラウマと言ってもいい。だから、ホストに狂うことは絶対あり得ないし、義姉(元夫の姉)から、「母(義母)はホステスしか出来ない人だから、店を持たせるから、あなたも手伝え」と言われたときは、元夫に泣いて「絶対に嫌だ、ムリ」と叫んだほどだ。
 結局、私が30歳になるまで母はその仕事を続け、末期がんで体が悲鳴を上げて引退せざるを得なかった。それから二年であっけなく亡くなった。
 母がそんな風にボロボロになるまで働いてくれたおかげで今の私があるのは判っているが、母のその職業のことは私にとっては反面教師でしかない。 
 絶対に手に職をつけるために資格を取り、一生その資格で働けるようになる。
 私の目標は既に小学生の時から定まっていた。

・祖母のこと

 当たり前だけど祖母は二人いて、この二人の祖母から私は嫌われていた。まず父方の祖母は「母をいじめる奴」という認識で、懐いたことはないし、会った記憶もほぼない。母も父方の祖母とは会いたくなかったから、あえて父の実家に行くこともなかった。
 母方の祖母は、対馬出身の口が乱暴な人。まぁ、漁師の妻ってそんなかんじ。しかも戦中を過ごしている人だから、それはもう、性格も言葉遣いも荒い。
 母は8人兄弟の4番目で、上3人は広島に疎開していたため、物心ついた頃から自分が兄弟の中で一番上だと錯覚をしていた。実際は、長男と次男と長女が上にいたけど、第二次世界大戦が終わるまで、会ったことがなかったそうだ。
 祖父は戦争に行ったのか、ちゃんと聞いてなかったから憶えてないけど、多分、召集されなかったんじゃないのかなぁ。祖母の尻に敷かれていたのはたしか。とにかく、祖母は気が強すぎる。
 母が憧れていた職業について、福岡で楽しく働いていた時なんて、嫉妬したのか、「家のことをする人がいないのは困る」と仕事を辞めさせ、対馬まで戻ってくるように言ったらしい。母はそのことを恨んでおり、晩年私に愚痴っていた。
 祖父は私が3歳の時に他界。しばらくは7,8番目のおじさんと暮らしていたけど、この二人が結婚をすることになり、一旦は長男(叔父)の家に引き取られた。
 だけどそんな祖母なので、長男嫁(叔母)とは相性が悪く、次男・長女はすでに鬼籍に入っていたため、仕方なく母が祖母を引き取ることになった。私が小学5年生くらいだったと思う。
 幼稚園のころ母が入院したため、この祖母の家に預けられたことがあったけど、本当に怖い人だった。(母はこのころ、乳がんで入院した。のちにこの乳がんが再発し、発見が遅れたため、末期がんと診断される)
 「あんたが女でよかったなぁ。まだ女なら役に立つから。また男の子だったら、あの男の子供なんかいらんから、私が捻り殺してやってたよ」
 そんなことを笑いながら平然と幼児の前で言う。私はこの祖母のことも嫌いで、なんで母が親戚中から嫌われているこの人を引き取らないといけなかったのか、全然理解できなかった。
 私に対しては冷たく当たる割には、男尊女卑の中で育っただけあって、男の子供に対しては凄く甘い。兄に対してのえこひいきは見ていても吐き気がするほどだった。
 私が高校に入る頃、ボケてしまったため施設に入所するが、誰もお見舞いには来なかったらしい。そりゃそうだろう。子供に対してですら、言っていいことと悪いことの区別もつかない人なんだから。
 自分はボケて10年くらい生きて、最期まで母を苦しめ続けていた祖母のことは、嫌いでしかない。
 こうやって書き出していると、私って、祖父祖母から愛された記憶がないわ。なんでそんな運命を背負わされないといけないんだろう。

・兄の借金のこと

 こいつが本当に最悪。
 父が母にたかっていたのを知っていたはずなのに、金銭感覚がまるで育っておらず、30年前、当時2000万円の借金を作りやがった。
 主には生活費。あとはスクーバダイビングのインストラクターになるための講習代。
 自己破産して、でも返さなければならない所には母が少しずつ返すことになった。
 母も自己破産しちゃえば良かったのに。
 ※ただし、当時自己破産後、7年間は母は保証人にはなれなかった。私のクレジットカードの保証人で母を登録しようとしたとき(当時はそういう決まりがあった)、私はクレジットカードを作ることが出来なかったのは、母では保証人としてダメだと言われたせい。ここでも兄の借金が影響が出てる。
 
 話は変わるが、中学3年の時、一刻も早く働きたかった私は母に商業高校への進学を打診した。ところが母は頑としてそれを拒否。国立付属の中学を出て、商業なんて行くのはダメだ。普通科を受けろの一点張り。
 他の子も家庭の事情で商業高校へ進学している子はいるし、うちの経済状況を考えると絶対にその方がいいってと説得したものの、母は「絶対にダメだ、普通科以外は受けるな」と言い、渋々私立2高、公立普通科5高選抜を受けることになった。結果的には、最期のラストスパートが足りず、私立に進学することになった。(当時のその地方では、公立選抜の方が偏差値が高かった)
 母の言い分は判るけど、普通科に行くということは、その先の大学も進学することを意味する。判ってるんだろうか?と思っていた矢先、兄の借金が発覚し、受験シーズンまであと少しというタイミングで、母は泣きながら「大学進学は諦めてくれ」と頼み込んできた。
 いや、今更じゃん?なんのために普通科に進学したと思ってるの?大学行かなきゃ、就職口もないじゃん。ってか、3年間の勉強がまるで無駄じゃん。私、何のために普通科に行かなきゃならなかったんだよ?
 だから言ったのに。
 私は人生で何度もこの言葉を言っている。
 元夫にも言ったなぁ。借金する人が嫌いだから、お金を借りておいて返さなければ、離婚することになるよって。
 母に対しても言った。だから言ったのに。あの時、商業高校へ行ってたら、こんな悔しい思いはしなかった。大学進学は諦めて、その代わり、専門学校へ進学するのは許してもらった。手に職をつけて、この家から出て行ってやる。それだけが新しい目標になった。
 兄にも言った。スキューバーダイビングなんかで、食べて行けるようになるの?って。実際、兄はその後も何度も借金を重ね、そのたびに母に払ってもらい、母が死んだのを機会に今では絶縁している。今ではどこで何をやっているのかも知らないし、知りたくもない。

・母の最期を看取ったこと

 母の末期がんが発覚した時、私は仕事であちこち飛び回っていた。ってか、その二年前に死にたくなるくらい辛い失恋をして、ゾンビみたいだった。元夫はその当時は元元彼(辛い失恋は元夫とではない)のポジションで、放っておいたら死ぬかもしれないと思っていたそうだ。
 あのタイミングで死んでも良かったな。いや、むしろその方が楽だったかもしれない。
 とにかく私は生まれた時から重たい荷物をいくつも背負わされて、誰からも愛されず、心の底から好きになった人には手ひどく捨てられてしまって、人生のどん底だった。家族からは愛された記憶がない。好きになった人にも裏切られる。
 仕事だけが唯一やらなきゃいけないことで、このころは心療内科に通い、睡眠導入剤と安定剤を導入され、それでもどん底の気持ちから這い上がることが出来ず、カウンセリングをしてる頃だった。
 「お母さんね、乳がんなんだって」
 電話で聞かされた時、ビックリして言葉に詰まった。
 「とにかく、仕事は辞めて、こっちの大学病院で治療するから」と言われ、出来ることはなんでもするとだけ伝えた。
 実際、生活費は何度も私から送金してたし、母は母で生活保護が受けられないかあちこち話を聞きに行ったけど、最終的には「子供が二人いるのだから、どちらかに養ってもらえ」と言われ、断られたそうだ。
 そんな中、私の妊娠が発覚。元夫との子供で、当時は未婚。
 鬱になんかなってる場合じゃない。私がしっかりしなくては。
 母の病気の件も、子供の件も。
 「こうでもしないと、結婚しないだろうと思って」と元夫に言われた。 
 そんわけで、真面目にプロポーズされたわけでもなく、私が妊娠しているというのが理由で結婚式も新婚旅行もなく、そして元夫はベンチャー企業で役員をやっており、会社に投資しているのでお金がないという理由で指輪もなく、なし崩し的に結婚をすることになった。
 もちろん、私が隙だらけだったのが一番悪い。
 けど、失恋で弱っているところにつけ込んで、結婚まで持ち込んだ元夫は卑怯者だし、離婚するときも「自分は悪くない」と言い張ったどうしようもない奴で、ハッキリ言って存在が迷惑なので、死ねばいいと思っている。

 母の病状を聞いてもちゃんとは教えてもらえてなかったが、兄が母を引き取るというので、それを期待して待っていた。
 ところが半年以上経っても兄は動き出そうとしない。怒って兄に電話したら、「同棲している彼女が嫌がって、話が進まない」とケロッと言った。は?あんた、バツイチだよね?同棲?え?お母さん、ガンなんだよ?あんたが「ずっと苦労かけてきて悪かった。和歌山で一緒に暮らそう」って言ったんだよね?って詰めよったら、逆切れして電話を切られてしまった。
 どんどん大きくなるお腹を抱えながら、不安な日々。母は気丈にふるまっていたが、実際は「治療しなければ、余命二か月」と宣告されていた。兄にまた捨てられてしまった母は、この時死にたいと思っていたそうだ。
 だけど、抗がん剤の治療でなんとか余命宣告から1年生き、兄は音信不通のため、出産を終えた私が母を東京に引き取ることになった。
 近居にアパートを借り、育休中の私は母の面倒を見た。病院へ付き添い、毎日一緒に過ごし、孫の面倒を見てもらう代わりに買い物に出かけたり、母の体調がいい時は一緒に散歩に出かけたこともあった。そんな生活を一年半過ごし、母は他界した。
 母の葬式直前で、ICUに入ってる母に対して、「まだ死なないのかよ!俺の仕事もあるんだから!」と暴言を吐いた兄とは、その場で絶縁。母方の親戚は、「冷静に考えて、喪主はお前がやれ」と兄がいるにも関わらず、喪主を私に引き受けさせる。なぜなら、葬儀代を兄が出せなかったから。
 母は生前から京都の菩提寺に永代供養を希望していて、亡くなって4か月経って納骨した。

 私は母のように父や兄にお金を吸い取られ、ぼろくずみたいに捨てられるのが嫌だったはずなのに、私も今は同じ。元夫にお金を吸い取られ、母の生命保険金で工面した家の購入費用や元夫からの借金を返してもらえず、子供の養育を一方的に押し付けられてる。
 子供は一人は大学生だけど、せっかく受かったのに一年の前期は学校に通えなくなり、学内のカウンセリングを受けて後期からようやく通えるようになった。もう一人は中学に上がった時から不登校になり、今も部屋からほぼ出てこない生活中。高校への進学先も決まっておらず、本人がどうしたいのかも全く話すこともない。

 こんなにいっぱいの荷物を最初から背負わされて、愛されてこなくて、なんで私ばかりがまだいっぱいの荷物を持ち続けなければならないんだろう。私の背負ってるものを少しでも持ってあげるよって言われたことなんか、一度もない。むしろ、もっと背負え、まだ手が空いてるからこっちの荷物を持てって、いっぱい押し付けられてばかり。

 結婚って、私からすると、なんて不条理な制度なんだろう。
 男って、どうしてこんなにも情けなくて、バカなんだろう。
 もう、男性は誰のことも信じられないし、子供のことも信頼していない。

 あんな男の遺伝子を残してしまったことが、私の人生の一番の汚点。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?