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Netflix映画パレードを見て溢れ出たものを羅列したい

今回のnoteは、「Netflix映画 パレード」を見てあふれてきた感情をできる限り整理しながら、可能な限りネタバレなしでの感想や、藤井監督作品に関しての話や思い出等々書き留めていけたらと思って筆を執ったのですが、完成して誤字脱字チェックも兼ねて見返してみた今、思いのほか長くなってしまって自分でもビビっておりますが、頭の中でくすぶっていた思考の供養と言うことで、生温かい目で見てやってください。(笑
(これで誤字脱字があった場合も、生温かい目で見逃してください。)


Netflix映画パレードの予告も貼っておくので、予告に触れていただき、少しでも気になった方には、ぜひ本編を見ていただきたいでございます…!

ではでは、あらすじを挟んでから、私の書きたいことに入っていこうかと思います。


この物語は、長澤まさみさんが演じている主人公の女性「美奈子」が波打ち際で倒れているところから始まります。

打ち上げられた物や崩れた瓦礫の数々、救助隊。
大災害に見舞われた街を歩き、息子を探すのですが、誰に声をかけようと反応してもらえないし、触れられない。

一体どういうことなんだ!とパニックになっているところに、坂口健太郎さん演じるアキラに声をかけられ、ここで初めて、触れたり声を交わせる相手を見つけます。

状況が飲み込めないままに、アキラの運転する車でつれて来られた場所には、他にも複数人の男女がいて「あなたは死んでいる、そして自分たちもそれは同じである」という旨を告白されます。

「こういう場所は各地にあって、
みんな、この世に未練があるからここにいる」という言葉を聞き、時間とともに死んだことは理解したけれど、息子の安否が気になって仕方がない。

一刻も早く息子を探さなければいけないと焦る美奈子でしたが、ゴーンという鐘の音とともに「この一晩だけ僕達と一緒に来てくれませんか。あなたのことを手伝えるかもしれないから」というアキラの提案で、とある場所に向かいます。

そこは、月に一度の新月の夜「亡くなった人たちが逢いたい人を探す」というパレードでした。

それをきっかけに、美奈子はしばらくここで過ごし、同時に息子を探すことを決め、お互いにお互いの未練を失くすために、支え合うようになっていきます。

少しファンタジーな要素もありますが、
とても暖かなストーリーとなっています。

俳優陣もとても豪華な方々ばかりな上、音楽担当も野田洋次郎さん…とても染み渡る素敵な音楽ですので是非に…。

以下、私の個人的ななぐり書きに突入いたします。


「君は君という人生の物語、その主人公だ」

みたいな言葉がありますが、昔はそんなことを言われても「障害を持って生まれて、人と何もかもが違って、地獄みたいなこんな人生、誰が好き好んで主人公になるかボケェ!!」なんて思ってました。

3.4年前障害を理由に、自分自身でいろんなものを諦めてきて、これだけは諦めたくないんだとしがみつきたかった「声優」という夢を諦めると決めてからは特にそれが強かったので、

当時のメンタル的に見れなくなってしまったアニメや声優から離れたものの、やはりお芝居からは離れることができず、結論として、ドラマや映画というものが、私の首の皮一枚をつなぎとめました。

そんなときに映画館で見た作品の一つが、
今回の話題、Netflix映画パレードを企画、そして制作してくださった、河村光庸さん及び藤井道人監督などの作品である「ヤクザと家族」でした。

別noteでもお話したと思いますが、
ヤクザと家族は、当時俳優さんでグッとはまり始めるきっかけとなった綾野剛さんが主演であったことから、藤井道人監督の名も知らない状態で予告につられて見に行ったのですが、

映画であんなに何日も余韻に浸ったり、頭と心が一杯になったのは初めてで、自分の中にまだこんなにも急激に感情が高まるスイッチがあったのかと、自分自身で驚いて、藤井道人監督の名をあっという間に記憶しました。


そんな日を経由して数年が経った今、私は映画が大好きで、足が不自由な故にしばしば見に行けなかった映画が発生してしまうことに時々唇を噛んでるわけですが、(河村プロデューサーの月も見に行けなかった…)

映画を好きになってからは不思議なことに、最初にあげた「人生の主人公」という言葉も、なんとなく理解できるような気持ちになっていて

「自分の人生がもし映画なら、
クソみたいなことばっかりでとことん暗く落ちたとしてとも、そこから這い上がったほうが断然面白いじゃないか」なんて言うマインドになっていました。

自分の人生が終わりを迎えた時、
エンドロールで「いい人生だ」と言えたなら、私を嫌った父とのことさえ、良い経験をもらったということになるのでは?なんて思いながら足掻いてたら、

去年や今年、いつの間にか風向きが変わり、
今は、今までじゃ信じられないほど日々を穏やかに過ごせていて本当に有り難い。

生きている事自体が幸せというのもわかるんですが、私にとっての幸せの源の一つは多分、
映画を見たりとか、ドラマを見ること、その他にも、本を読んだりアニメを見たり、エンターテイメントに対してなんだと思っています。

そう感じるようになったきっかけも、こちらもまた、パレードと同じく、河村光庸さん及び藤井道人監督などの作品、ヴィレッジの舞台挨拶を見たときの出来事でした。

それも19歳の誕生日直前の出来事だったために、どんな確率だよと思いながら、ずっとそわそわしてました。

自分にとっての舞台挨拶とは、声優を夢に据えていた頃からのある種の夢でしたが、それまでも何度も舞台挨拶の参加を諦めてきていて、これから先も絶対叶うわけ無いと思っていたし、先程風向きが変わったと話したとおり、特にそこまでの3.4年くらいは、家庭環境や障害の事だったり、自分の身の回りのことで今まで以上に強く絶望感を味わっていたので、

それが叶うというのは、あそこで諦めてしまわなくてよかった、幸せだ…と感じるには十分すぎる出来事だったんです。
(映画館で待機中MVに横浜流星さんがいて監督が藤井道人さんである未来になれなかったあの夜にを聞きながらほんとに泣くかと思った、てかもうほぼ泣いてた)

何年も夢見たものが目の前にあって、応援している俳優さんやプロデューサーさんが実際に動いているのを見るだけでも感激なのに、そんな生の声を聞きながらヴィレッジのお話を聞けると言うのは、感無量以外の言葉が出てこず、始まる前も終わってからもずっと興奮が収まらなかったです。


今回、パレードが発表されてからずっと楽しみにしていたわけですが、

監督が河村さんの企画を引き継ぎ再構築した、監督にとって特別な想いが篭っているであろうパレードを見終わって、サントラを聴きいていると、ストーリー的にも、これまでの思い出的にも、色んな気持ちが浮き彫りになって、未だに涙腺が緩む…。

感動した、いろんなことを考えた等々…その涙を形容する言葉はあるのですが、私の語彙力では、それ以上に深く濃いこの感情がうまく表現できません。故にこうして殴り書きでになってしまっているわけです。

いつも、自分はどうしてこんなに藤井道人監督の作品が好きで、急速に沼落ちしたのだろうと、ふとした時に考えてはうまく言い切れないまま終わるんですが、パレードの中にその全部が詰まっているような気がしました。

目に見える表面的なところで言えば、
作品の色味(今回は特にフィルム感が強く感じていて、好みにより近い)、光の映り方、カメラワークにシナリオだと自覚していますが、

その他、もっと目に見えない何か…これは本当になんて言っていいのかわかりません…

強いて言うのであれば、人それぞれにバックボーンがあることや、何か理由があって影が濃い状況にある人のことも描いてくれる人…と言うようなイメージが強いです。

(それこそ、それで言うと河村さんに対してもおそらく同じで、先程ちらっと名前を出していた月も、障害当事者として、実際にあった障害者殺傷事件をモチーフにしてくれているというのはとても興味深かった)

おそらくこれは私が勝手にそう思っているだけということも百も承知で言うと…どことなく、できる限りでいろんな人を置いてきぼりにしないようにしてくれているような気がしてしまうんです。(本当に私の勝手な感想です。)

というのも、ヤクザと家族を見た後、この人の作品がやっぱり好きだなぁと強く思ったきっかけは、今作と同じく横浜流星さんが出演している「青の帰り道」だったのですが、記憶違いがなければ、青の帰り道でも、パレードでも、いわゆる自傷行為をしてしまう登場人物がいるんです。

青の帰り道を初めて見たとき、
その行為に及んでしまうシーン(至るまでの描写も描きつつ)を見て、これまで何度か自傷行為をしてしまったことがあった私としては「ここまで描いてくれるんだなぁ」となぜか嬉しかったんですよね。
そこを深掘りした結果、藤井道人監督の作品が好きな理由の一つはこういうところなんじゃないかと言う結論に自分の中で至りました。

自傷行為と言うのは、誤解を招きやすかったり、何事にもそういう行動に至ってしまう経緯があると言うことにはなかなか理解が及ばないように思っているのですが、

藤井監督のように、そういう人物を描いてくれる=そんなバックボーンを抱えた人物としっかりと向き合って、その人物を作り上げている、と言うような思考に自分はなるからです。

そして、そういった人物であっても、迫害したり、嫌悪するのではなく、監督の作品(脚本)の中ではみんなが平等に、その人を支えたり愛したり、仲間として繋がっているように見えていたから。

パレードでも、そんなふうに感じるシーンがあって、それを見ながらニコニコしてしまったほどには、またもや個人的にとても嬉しかったんです。

(これだけだととても浅はかに見えてしまうけれど、これ以上の言語化は今のところ不可能なのでご容赦を…もっともっと伝えたい事はあって、くすぶっている状態でございます…いつか言語化できるような語彙力が欲しい(◜௰◝))

その他、今作では,ヤクザと家族やヴィレッジで見ていたキャストさんが出てきていて、キャラクターのバックボーンとしても、過去作を彷彿としてしまうようなシーンがあったり、いろんな部分でシンプルに悶絶してました。
(後者は単に勝手に思い出してるだけかもしれないけれど)

物語が終わりに近づけば近づくほどに、
どんどん登場人物たちが愛おしくなっていって、作品がとても好きになって…同時に完成や終わりが近づくことが、パレードの住民たちの絆を感じれば感じるほどに切なくなっていくんですよ…。

けれどクライマックスを迎えたとき、そんな切なさを感じつつも「あぁ、映画っていいな」って気持ちになりました。

誰かと何かを作るというのは、とても大変だろうなと毎度素人ながらに思うんですが、

同時に、夢を持っていた当時の私から見た役者や制作陣の方々は、そんな大変な作業や役割と、それぞれがそれぞれの熱量で向き合っていて、
それがとても素敵に見えたから、私は役者になりたいと思っていたわけでして…。

またもや少し話はそれますが、そういうことに関して言うと、そんな夢に背中を押される形で学校に復帰して、悩んだ末に文化祭への参加を決めたとき、クラスごとに劇を披露することになって、その制作時のことを、今でも思い出すんです。

役についてやシナリオについて、そして舞台上のセットについて。

時に真面目に、ときにふざけながら、
みんなが笑っていたり悩んで相談したりしながら、同じ「作品を作る」という目標達成のために一丸となっているのが、とても素敵だったから。

まして私は障害があって、人より役に立たないだろうし、クラス復帰したばかりの元不登校児だから、クラスメイトみんなに疎まれてもおかしくないと思っていたのですが、私のクラスはそうではなかった。
私にできる役割を振ってくれて、支えてくれて
おかげさまで私もクラスの中に溶け込むことができたと思っています。

みんなが楽しそうな姿を見ながら、自分の役割をこなし、結果、舞台は大成功でした。

舞台の下でたくさんの人が笑ってくれた。
その姿を舞台脇で感じ取りながら、とても幸せだったんです。

世界的に公開されている映画とクラス劇じゃ、なにもかも規模が違うことは一目瞭然で、きっともっともっと大きなものを抱えながら届けてくれているとは思っているのですが、大きな意味での原点は同じなのではないかと思うとより演劇やエンターテイメントが大好きになったんです。

だから、作中でみんなで協力しながら映画を作っていくシーンは、キャラクターみんなの表情を見ていると、画面いっぱいに楽しさや愛おしさみたいなものが溢れていて、めちゃくちゃお気に入りです。マイケルさん大好き…。

これは見た方にしか伝わらないことだと思うので、ネタバレじゃないかと少しヒヤヒヤしてしまうんですが、

最後の方に大勢で映画を見るシーンがあるんですが、そこで、舞台に立つ人からの視点と、客側からの視点と両方が切り取られていて、

舞台から背中越しに見える景色が、
文化祭の日、初めて部活で歌った時や、クラス劇で立った舞台と重なって、あの日の気持ちを思い出させてくれました。

個人的に、勝手なバイアスかもしれませんが、
藤井道人監督の作品は、役者さんの(キャラクターの)表情をとても近くで感じ取れるような気がしていて。
なんというか、1秒足りとも素敵な一瞬を逃さないぞみたいな、そんな気概をいつも感じるんです。

だから余計に、キャラクターの対話を見ながら、これまでの映画制作においても、藤井監督と河村さんの間にこんなやりとりがあったのだろうかと思ってしまったりもしたんですよね。(おこがましいような気もするけれど)

そんなこんなでストーリーにしみじみしていたら、あっという間にエンドロールを迎え、演出等に感激してると耳に届いた、野田洋次郎さんのなみしぐさ。

瞬間的に藤井監督がこの作品に込めた思いや受け継いだものを夢想して、同時に、ストーリーが走馬灯のように頭をめぐりました。

あそこが素敵だった、ここが素敵だった、ここが切なかった…。いろんなことが溢れ出て来て、けれどもとても優しく浸透してくるような希望のあるエンド。

もう色んな気持ちが抑えきれなくて、気づいたらぽろっと泣いちゃってました。

藤井道人監督の作品を見終わった後は大体いつもそんな感じなんです。

監督の作品を通してみる人物たちは、自分の中で無意識に蓋をしてしまう感情に気づかせてくれる人物たちがとても多いように思っていて、毎度毎度見終わった後にいろんな自分に気づかせてくれます。

もともと自分の感情というのがとても嫌いで、感情なんかなければよかったのにとさえ思っていた時期もあった位でしたが、気がついたら今は「自分」という人間の感情を持って映画を楽しめているので、ほんとに頭が上がらないでございます。 (ちなみに藤井監督の5月の新作もこれまた既に見に行く日を計画中)

以前のnoteでお話しした通り、藤井道人と監督のヤクザと家族や、李相日監督の流浪の月と言う映画を通して、当時の私には足りていなかった、いろんな視点から人や自分を見るというこが鍛えられ始めたなぁとも思っているので、映画とは娯楽として、楽しみながらもとてもいろんなことを教えてくれるなぁとも思ったりします。

とはいえ私は頭が良いわけでは無いので、細かいことはわからず、解釈が間違っていたり、受け取れていない部分もあるかもしれないけれど、自分なりに精一杯受け取らせていただいたものは、とても素敵なものばかりです。


パレードに関わってくれたすべての方々に感謝と敬意を…。

河村光庸さんも、パレードに出てきたような、
優しく暖かな世界で穏やかに過ごせていることを願います。

藤井監督や、パレード登場人物たちが経験しているような身近な人(この場合は家族の猫や犬は除いて)が死ぬ、という経験を私はまだあまりしていません。

しかし、友人や親の命が危ぶまれるような危機的状況を目の当たりにする瞬間が度重なったことはあったので

今もこうして繋がってくれて、諦めずに生きてくれている、戻ってきてくれた友人や親にとても感謝しているし、共に過ごせる時間のありがたみのようなものをより感じています。

パレードを見ながら、もしもあの時、本当に親や友人の命が尽きていたら、自分はどんな気持ちになっていただろうと言うことも考えましたし、
これまで見送ってきた、家族だったワンちやんや猫ちゃんに対して、改めて感謝だったり、これからも見守っていてくれるだろうかと想像してみたりもしました。

人に限らず、生きとし生けるものはいつか必ず死んでしまう。
それは怖いものではないけれど、やっぱり辛く悲しいもの。それは仕方ないことです。

パレードの中の方たちもそうだけど、
いつ誰にどんなふうにして災難が襲いかかるかわからなくて、いつ言葉を伝えられなくなるかもわからないから、可能な限りどんなことでも伝え合うことや、触れたりできるうちに互いに支えあったりするのは大切なんだなと、とても思います。
それが難しいから、多分人間は苦労したりするんですけどね。

それでも、自分なりに、生きている「今」をちゃんと生きて、共に生きている大切な人に、あなたが大切だと伝えたり、くだらないことで笑いあったり、支え、支えられ。

辛い日々の中で少しでも、自分がワクワクする楽しいことをして過ごす他ないんだよなと思っております。

共に過ごした人から、受け継いだものをつないでいくと言うのも同じような感じで。

もし生まれ変わりがあったとしても、
また同じ人に出会えるとは限りませんし。
いや…生まれ変わってでも出会いたいくらいの人は沢山いるので、出会える方であってほしいな…とは思うけれど。
(まさになみしぐさにある「君とならば どんな二人も 生きてみたい 抱きしめてみたい」です)

なんにしても、私としては、
これからも、藤井監督が届けてくださるものはもちろん、大好きな方々の作品を、生きている限り全力で受け取り、ときに助けてもらいながらできるだけ未練の残らぬよう生きていきたい、なんて思っていたりします。

少なくとも、今回も無事にとても素敵なものに触れられてとても幸せです。

ネガティブなこともたくさんあるのが当たり前なそんな日々の中で、1秒でも多く、私の大切な人たちが幸福でいられますように。

このnoteをここまで読んでくださった貴方様にも、素敵な日々が続きますように。


今回もまたうまくまとめられず駄文ななぐり書きとなってしまい、失礼いたしました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ではまた。

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